●アサド大統領の最大の政治責任と、歴史への影響
皆さん、こんにちは。
前回は、復権したバッシャール・アル=アサド大統領の政治力が高まっているという事実について触れましたが、アサド大統領の最大の政治責任が一体どこにあるのかが問題です。
それは、市民の虐殺に加えて、たくさんの難民を出したにとどまらず、そもそも国家の存続を危うくしている点にあります。シリアという国のまとまりを自分から破壊し、分裂させている点、ここに一国の大統領が基本とすべき最大の政治責任があるのです。その上で、国民への虐殺や抑圧だけではなく、多数の難民も出してしまった。このような人道性に加えて政治性の欠如という点に責任があるわけです。
18世紀のフランス革命、20世紀のロシア革命に並ぶものとして、21世紀のチュニジアに始まりエジプト、リビアなどを経てイエメンやシリアなどのアラブ世界で進行したアラブ圏共通の動きを「大アラブ革命」と呼ぶことができるかと思います。
この大アラブ革命の余波に共通するのが、他のフランス革命やロシア革命と並んで、終結の予測が難しいことです。さらに共通するのは、誰もが予想できない大テロや戦争を生んだ点で、これこそがむしろ歴史的に特筆するべき点なのです。
●エジプトにおける「反革命」の進行
ナポレオンやスターリンと比べるには、アサドはあまりにも小粒であり、器が小さいと言えます。しかし、シリア危機の指数を考えると、シリアが一角を占める中東複合危機の深刻さと、それがローマ法王フランシスコの言う「まとまりのない第三次世界大戦」に発展する危険性について、個人としてのキーパーソンの一人が、紛れもなくアサドその人であることは否定できない事実です。
この「アラブの春」5年を閲して、少々エジプトに目を転じてみましょう。エジプトでは、自由に発言を許された人々は、ひとたび自己主張の奔流がほとばしると、想像だにしなかった民主化の混沌やアナーキーの生じた厳しい現実に疲れ果て、倦んでしまいました。
その結果、秩序と安定を求める人間の保守的本能がよみがえり、革命の沈静化、アナーキーからの回復と混沌の終結を求める手がかりとして、軍が求められるようになりました。それが、ムスリム同胞団の生んだムハンマド・ムルシー大統領の軍による排除という静かな革命を成功させたのです。
言い換えれば、民主化を目指した「アラブの春」から波及した「エジプトの春」は、この時点で軍の力に屈して挫折してしまったことになります。フランス革命において市民革命の終焉を告げた「テルミドール(革命暦11月)の反動」に当たるものかもしれません。
しかしエジプトでは、ロシアでスターリン政治体制を成立させたトロツキーの言う「ソビエト・テルミドール」ほどの大きな揺り返し――人民に対する大きな圧迫や抑圧、粛清――は起きませんでした。
●シリアの行く手が「アラブの春」の帰趨を決する
幸いなことに、チュニジアやエジプトにおいては、フランス革命の「白色テロ」やナポレオン戦争につながる大きな戦争、あるいはロシア革命の苛烈な血みどろの内戦、ボリシェビキ(後のソビエト連邦共産党)による反対派への情け容赦のない「赤色テロ」に匹敵するような、破局的な経験に遭遇することはありませんでした。
しかしシリアは、チュニジアやエジプトのケースとは異なります。イスラム国(IS)の「緑色テロ」に加えて、国内戦が外国を交えた戦争に変化し、国民が集団難民としてヨーロッパを流浪するようになっています。このシリア国民の破局と悲劇の規模は、フランスやロシアの歴史的な悲劇と比べても、質量ともに独特なものがあります。そうした試練の規模や質においてシリアに及ばないリビアとイエメンにおいてすら、今や内戦が起こり、そこに外国勢力が干渉している事実は否定できないのです。
大アラブ革命の曲折した流れは、エジプトの「アラブ・テルミドール」からシリアの戦争に至るまで、大きな蛇行を描いています。リビアの独裁者であったムアンマル・アル=カダフィは殺害され、エジプトのホスニー・ムバーラク大統領とその一族が権力に復帰することも、まずあり得ないと言えるでしょう。
他方、私が以前からいろいろなところで発言してきた「シリアこそが『アラブの春』の行方を決する最大の天王山になる」という予知・予言は、まさにその通りになっています。すなわちシリアのアサド大統領は満身創痍になりながら、国民に対するテロや迫害をものともせぬ決意を持ち、「シリアの春」を挫折させる方向に向けてまっしぐらに進んでいるのが現状です。
●旧体制・民主派共倒れ、ISに成長の機運はあるか
さて、フランス革命で「アンシャン・レジーム」と呼ばれた「旧体制・旧秩序」は、中東...