●最後の明治型ジェネラリスト、鈴木貫太郎とリーダー育成
齋藤 鈴木貫太郎という人は、日清・日露の戦争に参加して、日露戦争では水雷艇の艦長として際立った勇敢さを見せました。戦後は海軍の次官から大将、そして侍従長を歴任、ジェネラリストのぎりぎり最後の末裔と言えますね。こうした明治のジェネラリストにくらべると、吉田茂などでさえ格は落ちると思います。それでもなかなかの人物ではありますが。
―― 鈴木は、水雷艇の艦長から始まって大臣、侍従長ですか。
齋藤 海軍出身の侍従長ですからね。侍従長は天皇の傍にいて全てに対応する役割です。それらを全部やった上で、最後に総理になる。日本の総理というのは、やはりどこか違うところがあったのですね。原敬などは、もっとすごいと思いますけれども、そのような人たちを出せるかどうかが、民族を救うかどうかを決する最後の砦です。
私は、自著『転落の歴史に何を見るか』にも書きましたが、「危機になれば人材は自然に出てくる」のかというと、そうではない。やはり良質な指導者をどうやって育んでいくかということを社会の中にビルトインしておかないと、その国は長持ちしない。
―― そういう意味では、アングロサクソンもシンガポールも、それぞれのやり方を持っています。イギリスにはケンブリッジやオックスフォードに進学するためのボーディングスクールがあるし。
齋藤 イギリスはうまいですね。そして、タイプは違うけど、アメリカもなかなかいいエリートを持っている。
―― アメリカは層が厚いですよね。金も量も圧倒的なボリュームがあります。
●原敬と山縣有朋に学ぶ「お国のため」という議論
齋藤 それから、どの国もリーダーが必要だという明確な認識を持っています。日本では、「リーダーなんて、要るの?」のような話になるわけで、何よりも組織が違うのですね。
私、今回は何を話そうかと思って自分の本を読み返していたら、一つ発見したことがある。自分の本で発見するのもどうかと思いますが。
原敬は、不倶戴天の仲だった山縣有朋とひんぱんに会っては、5~6時間も話し込んでいます。『原敬日記』には「自分がこう言ったら、山縣はこう返してきた」とか「やはり大した人物ではない」とか、克明に書き込まれています。山縣は、彼にとっては寝首をかかれ兼ねない相手なのに、その相手とひんぱんに会っては「日本の国のためには、こうしなくてはならない」とやり合っていたわけです。つまりは、今の日本の総理と民主党の代表が、そんなことを話し合っているか、ということです。
原敬は国のためという観点からどんどん訪ねて行って話すだけにとどまらず、「この案件はぜひ進めるべし」と、相手を説得したりもするのです。もちろん山縣も、私利私欲はありながらも日本のことを考えているから、原に賛成できる事柄については「そうだ、それでいこう。俺も協力する」と言うわけです。ひるがえって今の与党と野党ではどうでしょうか? 足を引っ張り合うだけですから、間違いなく劣化していますね。
―― 維新の最後の生き残りの山縣有朋と、日清・日露を生き残ってきたスーパージェネラリストの原敬ですよね。
齋藤 その二人が話し合うわけです。そして、最後に原敬が暗殺されたときには、あれほど彼の総理就任を妨害した山縣が、「実に惜しい男を亡くした」「これでは、日本は保たない」と言ったといいます。
―― すごいお話です。
齋藤 今の与党と野党の間より、立場も距離もはるかに離れた二人が話し合って、「日本のためにどうするか」という接点を探り合っているのです。
―― 両方ともひとかどの人物ですね。現在とは違います。
齋藤 自著を読み返して発見したのは、その違いなのです。「そう言えば、日本の与党と野党はこんな話し合いなど、今はしていないよな」と思いました。
●日本のリーダーシップは「武士道」のエトスから
―― あと、なんといってもあのご著書での発見は、1921~1922〈(大正10~11)〉年を境に明治の元勲・元老たちが誰もいなくなったということでした。あれは、すごい発見でしたね。
齋藤 あれを発見したのは、計算してみたら、大隈重信も山縣も原敬もちょうど同じタイミングで死んでいくのです。奉天会戦からノモンハン事件に至る34年間のちょうど真ん中のところでいなくなる。だから、その前半はなんとか保ちましたが、後半で崩れていったのです。
―― 原敬まで殺されなかったら、後半の歴史も大分変わっていたでしょうね。
齋藤 変わっていましたよ。原敬はとにかくすごいです。
―― やはり私が惜しいと思うのは、陸奥宗光と原敬です。
齋藤 惜しいですね。陸奥が倒れたのは病気でしたけどね。でも、当時の日本にどうやって彼らが育ったのかを考えると、エリ...