●逆境の連続だった松下幸之助の人生
そこで猛獣型リーダーの話ですが、原敬や松下幸之助、今ならばGAFAの人たちがそのような人たちになるでしょう。
松下幸之助の人生は、ちょうど50歳のときに敗戦を迎えます。
彼は小学校4年生で丁稚に出されます。大阪の丁稚というのは、それなりに一つの徒弟制度教育かと思っていたら、本人の話によるとそうでもなく、だいたい基本的には田舎の口減らしだといいます。丁稚の中で(仕事を)やっていると、半分ぐらいは途中でいなくなってしまう。そのような環境の中で生き抜くわけです。休みは年に2回くらいしかなく、(幸之助は)両親の死に目にも会えていません。
その中で彼は創業します。彼が創業したときから満州事変あり、日華事変あり、第二次世界大戦もありで、(そうした中、)大阪ではそこそこ成功した金持ちになります。ところが、国が経営を誤ったために財閥指定になり、陸海軍から「船をつくれ。飛行機をつくれ」といわれるままに使われ、代金は払ってもらえない。結局、国とともに松下電器の戦前の(繁栄)は終わってしまいます。
1945年、50歳のときです。GHQに間違って戦犯とされ、税金滞納を言い渡されます。もう自殺しようかと思って、戦前の番頭を50人ぐらい集めました。サントリーの鳥井信治郎氏と江崎グリコの(江崎利一)社長にお金を借りて、一夜皆をすき焼き屋に連れて行くと、万年筆や茶碗などを配ります。しかし、死にきれず立ち上げたのがPHPです。
●戦後の松下幸之助とGAFA創業者たちの相似性
(PHPのスローガンは)「繁栄によって平和と幸福を」というもので、周りは「いよいよこのおっさん、狂ったのか」という感じの反応でした。でも、(彼には)やることがなかった。(GHQの制限により)もう1回、再創業をさせてもらえないので、予言者のようなことを言っていたわけです。「今は焼け野原だけれど、やがて必ず繁栄して、平和と幸福が(手に入る)」――これにより、彼は狂信者扱いされますが、実際には言った通りになります。
1951年に再創業して、(スライド)ここの写真は『TIME』の写真です。1962年に松下幸之助が『TIME』の...