●挫折した直訴状と約束手形
(ここから)私が絡むわけですが、当時(昭和35年)、東京で家電販売を担当する営業所の一員として、寮生活をしていました。その寮で5、6人、同じぐらいの年代の大卒者たちが集まって話しているうちに、「おいおい、このままだと松下、おかしくなりゃせんか」「卸屋さんが潰れたら、松下はひどい目に遭うぞ」という話が出てきます。
責任者である所長は、東京営業所が全国一の職責の営業所ですから、ここでうまくやると取締役になれるという大事な地位にある方ですから、いきおい「押せ押せ、行け行け」というタイプの方でした。そういう方に「危ないですよ」という話をしても聞いてもらえなさそうだ。ついては、相談役(当時は社長)に直訴しようかと。それで手紙を書こうということになり、私が手紙を書いたのです。
ところが、中に一人、怖がって所長のところへ行った者がいました。「こういうことをしているのですが、どうでしょうか」と。それでみんなが呼び出された。「馬鹿者、なんということをするか」ということになって、(この計画は)消えてしまいました。そのせいかどうかは知りませんが、私は本社に転勤を命じられて、企画本部へ。「企画本部ならいいだろう」ということですが、そういう時期がありました。現場は、そういう窮状がずっと深化しているけれど、表面には現れなかったのです。
●営業至上主義の現場操作と隠蔽体質
ところが、昭和39(1964)年、幸之助相談役(当時は会長)が大阪の枚方というところにある卸屋さんのお店へふらっと伺うのです。そうすると、「大将、見てや」と、4.5センチもある紙束を見せられる。
「これは全部手形やな。今は全部、手形やねん(手形払いになっている)。これ、わし毎日見ているんだけど、10枚出せば必ず2枚くらい不渡り、延期手形が返ってくる。松下さん、あんたが知ってくれないと困る」という話をするわけです。
相談役は勘の鋭い人ですから、これは危ないと思って、すぐに(会社へ)戻ります。藤尾専務に「松下の最大の債権者の卸屋さん、どのぐらいの債権をうちは持っているのか、調べてんか」と頼むと、8カ月持っていたわけです。驚きましたね。「この会社が潰れたら、うちの利益も全部飛んでまうな。これはなんとかせなあかんな」ということになるわけです。
ただ、現場は松下正治社長に任せて、(相談...