●28歳から25年間におよぶ松下幸之助の薫陶
佐久間でございます。今日は私で何か役に立つかと不安いっぱいで来ています。とにかく松下幸之助さんについて、今日は限られた時間いっぱい話をさせていただきたいと思っています。
松下幸之助──私はどうしても「幸之助」と呼び捨てるのができなくて、「相談役」「相談役」と言っています。「相談役」といえば幸之助だと思っていただきたい。相談役と最初に会ったのは28歳の時でした。最後に会ったのが53歳でしたから、ちょうど25年間、直接・間接に指導を受けたことになります。
その前、大阪市立大学というところを出ました。皆様の中で若い方は想像できないかもしれませんが、昭和25年に私が入学した頃はマルクス主義一辺倒で、特にスターリン主義に偏った学校でした。私はぼぅーとして入ったのですが、その雰囲気が好きではなく、それでもそういう教育を受けているため、どちらかというと左がかったタイプの人間でした。
そういう人間から見ると、松下電器の評価は、大阪のどちらかというと古い体質の会社であり、幸之助さんは大阪商人の典型的なタイプで、古い体質の人であると。社長の体質が古いから会社も古くなるわけだ、と評価されていたわけです。
では、なぜそういうところへ入社したのかということになりますが、当時は大変な就職難でしたので、とにかく仕事が見つかればいいということで、松下電器に入れていただいた。「入れていただいた」というのが正しいと思います。
●最初の出会いは「三役会議」
そういうことで、最初の出会いは「私が28歳の頃」と言いましたが、本社の企画本部というところに属し、調査を担当していました。当然、平社員です。
ある時、企画担当の藤尾(津与次)専務から、「リッカーミシンというところの業績が非常にいい。その源は予約販売という制度をうまく使って成功していることにある。あれを、松下として真似られないか、真似たいという思いが相談役にはある。真似ていいものかどうかという調査を、お前がやれ」と命を受け、私が調査に携わりました。
結論は「やるべきではない」ということで、専務に報告しました。この件はそれで終わったと思っていたのが、ある日突然、「三役会議」というところに呼び出されます。
三役会議は、(当時)松下幸之助社長、娘婿の松下正治副社長、大番頭の高橋荒...