●超一流に接して学んだ旧制高校生たち
―― 昔の旧制高校や東京帝大は、天皇の官僚を育てようとした所でした。だから、戦後の受験勉強のなれの果てのような東京大学とはまるで違うような気がします。
齋藤 違いますね。授業も先生も違うでしょう。私は岡崎久彦さんに旧制高校の話を聞いたことがあります。彼はほとんど最後の世代でしたが、先生は超一流で、例えば数学なら当時の日本の数学者のトップクラス、仏文学なら仏文学の大家が、高校へ教えに来ていたと言われていました。そうすると、本物を見るわけです。
―― 彼の持っている教養は、書も達筆ですけれど、ご自分で書かれた「出師の表」は見事ですよね。
齋藤 見事です。岡崎さんも、やはり旧制高校の血を少し残した方ですね。
―― 最後の血がね。
齋藤 最後でしょう。例えば一高の歌で、「嗚呼玉杯に花うけて」の歌詞を見ても、「社会正義のために自分たちはやるのだ」というような歌詞になっています。今とは全然違う。
―― 「栄華の巷低く見て」とか、全然違いますね。
齋藤 そんなものは、自分たちには関係ないと。
●社会の背骨を支えるのは、指導者の「道徳的緊張」である
―― 要するに、規範がないところからは、エリートは出てこないのでしょうね。
齋藤 世界の国で出ているのに、なぜ日本ではこんなに希薄になったかが問題ですね。一流のスポーツ選手は出るのに、一流の政治家がなぜ出ないのか。スポーツ選手には、ノーブレス・オブリージュは要らなくて、環境と能力があれば世界のトップクラスにもなれる。だけど、政治や、もっと言えばビジネスも含めた世界でトップクラスになるには、環境と能力だけではダメで、やはりノーブレス・オブリージュが必要なのでしょうね。
「公のために自分はやらなくてはいけない」使命感というと陳腐な言葉になってしまいますが、それを司馬遼太郎は「道徳的緊張」と呼びました。社会が背筋のピンと伸びたものになるか、ならないかの分かれ道は、指導者の「道徳的緊張」の有無であるというのが、あれほど歴史を研究した人の結論でした。
道徳的緊張がなくても、オリンピックのメダルは取れる。だから日本人も取っている。でも世界の政治的リーダーは、多分それなしでは金メダルは取れないのでしょう。だから、日本は取れていない。
―― 「道徳的緊張」は、とてもわかりやすいですね...
(司馬遼太郎著、関川夏央監修、文芸春秋)