●「体道第一」で、言葉の限界を知る
『老子』を開くと、「体道第一」という章から始まります。「体道」とは、「体で道を体得すること」です。もうすでに申し上げましたが、老荘思想では宇宙の根源を「道」と呼びます。天地を創り、万物を創ったものが「道」であると言われている。言い換えれば「生みの母」です。生みの母の言い付けをよく守り、その人の言う「こうしなさいよ、こうやって生きるんだよ」という教えを守っていくのが一番いい生き方ではないかと説いているのです。
では、その「道」とは、どういうものなのか。『老子』の一番最初を開いて、どんな章句から始まるかを見てみましょう。
「道の道とす可(べ)きは常道に非ず」という言葉から始まります。これは何を言っているのかというと、いま私が口に出したように「『道というのは…』と言った瞬間に、「それは道ではない」と言っているわけです。すごいですね。つまり簡単に言うと「言葉には限界がある」ということなのです。
「道」という言葉が出た瞬間に、私が感じる道と、皆さん一人一人が感じる道はもう違っている。だから、本当の「普遍の道(エターナル・タオ)」とは全然違うものなのだと言っているのです。そのぐらい言葉は頼りないものである。言葉は理屈を生みますので、理屈一点張りがいかに頼りないかということも示しているわけです。
●言葉で説明するより、現場へ行くのが勉強になる
では、どうしたらいいのか。一つの例として、生まれながら目の不自由な方がいると仮定してお話ししてみましょう。そうすると例えば、今そこにある水のボトルを言葉で説明しようとしても、言葉には限界があるので、その人の頭にそれ自体の像がありありと浮かぶことはないのです。では、どうすればいいのかといえば、触っていただくのが一番いい。触ることが「体得する」ということなのです。
道について書かれた『老子』の「道徳経」は81章にわたりますが、それらを理屈ではなく感覚で読んでほしいと、冒頭で述べているわけです。その象徴が「道は体得するものだ」と示す「体道第一」の言葉です。
何事も言葉や理屈に頼ろうという現代人の最大の弱点を、老子は予見しているようです。それよりは体験をさせた方がいい。もっと言えば、現場に連れて行った方がいいということです。現場には匂いがあるし、五感が働く。全てのことは五感を用いて体得させる方がいいということです。
教育などにしても、学校の中でやっているようなものだけでは済まないのだから、いろいろな現場へ連れて行く。例えば生産工場の現場へ連れていくとか、何か凄まじい事故のあった現場へ連れていくことです。そういう生々しい現場の方が、生徒にとってはよほど勉強になる。ところが、「教育」というと、学校の中で教科を教えるのが常識になっている。それが果たしてどこまで正しいのかを、もう一度考えてくれと老子は言っているのです。
●常識外れの真実に触れると「生命論」が身にしみる
常識外れのものの方が、実は筋が通っている場合はたくさんある。老子はそう説くわけですので、「常識を疑う」ことを表した章句を、いくつかご紹介したいと思います。
まず「曲なれば則(すなわ)ち全く、枉(おう)なれば則ち直(なお)し」という言葉があります。
これは、何か。「曲」は曲がっていることで、何がかというと「枝ぶり」です。幹も枝もくにゃくにゃ曲がっている木というのは、どうでしょう。使いにくくてしようがない。材木としては失格ですから、切られることがない。逆にスーッと伸びたものは使いやすいので、真っ先に切られる。つまり、長命という観点から見れば、曲がったもの、使いづらいものの方がよほど価値があるのだと言っているわけです。
老子が説いている中で、最大のポイントは生命論です。つまり人間が真っ先に考えなければいけないのは、「いかに命を大切に生きているのか」だということです。この世に生きていることを、もっと重視する必要があるというのです。
●曲がると悪いか、古くなると悪いかを自分に問うてみる
私は自分の体験もあるので「生きているだけで百点」と言っていますが、老子には「足るを知る者は富む」という有名な言葉もあります。「生きているということで十分ではないか。他にあなたは何を望もうというのか」と考えれば、変な欲もなくなってくるということです。
この章句、「曲なれば則ち全く」でも、やはり「寿命通りに生きる」ことが述べられています。さらに、「枉なれば則ち直し」と続く。例えば尺取虫などは、曲がって曲がって進んでいくわけですが、実はそういうものの方が真っすぐ行ける。少々曲がっているようなものの方が、人生においても真っすぐな道を歩めるのだということを指しています。
さらに、「弊なれ...