●「一緒に飲みたい」張飛、「神様になった」関羽
こんにちは。早稲田大学の渡邉と申します。今日は、関羽 (かんう)という三国志時代の英雄の話をさせていただこうと思います。中国の三国志時代は3世紀のことですが、『三国志演義』という文学にまとめられた物語は、中国人なら誰もが知っています。劉備 (りゅうび)という主人公がいて、彼を支えていく二人の武将が関羽と張飛 (ちょうひ)です。
張飛は民衆のヒーローとしてとても愛された人で、「一緒に酒を飲みたい人」のナンバーワンになったりします。それに対して、関羽は信仰の対象になっていますが、ただの武人ではありません。武人が「武」の神様としてまつられるのは分かりやすいですが、彼は商売の神様としてまつられました。例えば、日本でも中華街に「関帝廟」という形で置かれています。それは、どうしてなのかをお話しさせていただこうと思います。
●武力ナンバーワンではなかった関羽
まず、関羽の武力ということですが、『三国志』の中で個人として戦ったときに一番強いのは誰かというと、圧倒的に呂布 (りょふ)です。関羽ではありません。「人中に呂布有り、馬中に赤兔 (せきと)有り」という軍中語、当時のことわざめいたものが『三国志』の中にあるように、個人の武力は呂布。では、軍隊を率いて戦ったときに圧倒的に強いのは誰かというと、曹操(そうそう)です。
そういうわけで、関羽は最強ではありません。しかし、そこそこの武力はあります。例えば、『三国志』には袁紹(えんしょう)の部下であった顔良(がんりょう)を斬った「白馬の戦い」などが記されているからです。しかし、それでもナンバーワンではありません。では、どうして、彼が義として、神様として信仰されていくのかというと、その武力が義とともにあったことが尊重されているから、という話になります。
顔良との戦いについて、スライドに『三国志』の文章を出していますが、数えていただくとお分かりのように非常な短さです。「関羽が顔良の傘を遠くから望み見て、顔良と多くの人の間で馬に鞭を入れ、刺して、その首を斬って帰った」という程度のことしか書いてありません。
●『三国志演義』に書かれた華麗なる「白馬の戦い」
『三国志演義』では、より多くの文字を費やして、その武力が描かれています。以下に訳文を出しておきましたが、この中では「関羽」と呼び捨てにはしていません。彼はすでに神様ですから、「関公」と呼ばれているのです。
「関公、勇躍馬にまたがって、青龍偃月刀 (せいりゅうえんげつとう)を片手に山を駆け下り、切れ長の眼をかっと怒らせ、太い眉をきりりと逆立て敵陣に駆け入れば、河北の軍勢はわっと波のように分かれるところを、顔良目指して殺到した。顔良は、絹傘の下にあったが、関公がすさまじい勢いで突き進んで来たので、声をかけようとした時、赤兔馬(関羽の馬)は早くも眼前に迫り、刀を構えるいとまもなく、雲長 (うんちょう、関羽の字)の刀一閃して馬下に斬って落とされた。関公ひらりと飛びおりてその首を掻き斬り、馬首に括りつけるなり馬に飛び乗って、敵陣を駆け出でたが、その勢いあたかも無人の境を行くが如く、河北の将兵はただただ仰天して、戦わずして総崩れとなった。」
これは立間祥介先生(慶應義塾大学名誉教授)の訳ですが、文学の世界ではこういった表現がされていきます。
●関羽の「義」を最初に評価した曹操
関羽は、三国志時代を代表する武人の一人です。また、曹操が関羽を非常に高く評価しました。曹仁 (そうじん)が守っている樊城 (はんじょう)を攻めた時に、曹操が遷都を検討するほどの武力を発揮したと言います。でも、それだけでは、信仰という神の高みにまで上がっていくことはできません。そこで、「義」の概念が関わってくるのです。
関羽を「義」と称したのは曹操です。劉備が曹操に負けた時に、関羽は劉備の夫人たちを守っていたので曹操たちに降伏して、曹操軍に所属した時期があります。具体的には、曹操が袁紹 (えんしょう)と天下分け目の戦いを行った際、関羽は先ほど『三国志演義』で読んだ「白馬の戦い」で顔良を討ち、曹操のために活躍しているのです。歴史的な事実としても、曹操は関羽を非常に高く評価して、さまざまな贈り物をしたり、「漢寿亭侯 (かんじゅていこう)」として封建していきました。
しかし、劉備がまだ生きていることが分かると、関羽は彼の元へ帰るために曹操の元を辞していきます。ただ、関羽が曹操の陣営の中にいることは誰もが知っています。時は袁紹との戦いの間であり、しかも劉備は袁紹の部下になっていました。ですから、左右の者は関羽が劉備の元へ行こうとするのを止め...