●たたき上げの英雄、劉備
早稲田大学文学学術院の渡邊でございます。今日は「漢室復興」ということで、劉備 (リュウビ)と諸葛亮(ショカツリョウ)の話をさせていただきます。
劉備は漢の一族だと自称しています。劉備が祖先だと称したのは前漢の景帝の息子である中山靖王劉勝ですが、この人には120人の子がいるのです。ものすごい子どもをもうけた人ですから、その子孫は中国の研究者の試算によると何十万人単位でいたことになります。したがって、後漢の王室とはほとんど関係のない人だとお考えいただいた方がいいと思います。そして、劉備・孫権(ソンケン)・曹操(ソウソウ)の三人の中で、最下層から出てきた、たたき上げの英雄が劉備だとお考えください。
劉備を支え続けたのが、関羽(カンウ)・張飛(チョウヒ)の二人です。『三国志演義』ではこの二人と桃園で契りを結んだというフィクションが出来上がっていますが、中国はフィクションに基づいて、きちんとした歴史遺跡があるのです。
写真を見ていただきたいのですが、劉備の故郷であるタク州にある「三義廟」です。非常にきらびやかな像とともに、三人が「桃園の契り」をした場所がちゃんと残っていますので、この三人がいかに愛されているかということが分かると思います。
●知識人を求め「三顧の礼」へ
ただ、どうしても社会階層が低いことを反映して、この集団には当時の知識人層である「名士」が、なかなか居つかないのです。それでも戦いは強い。劉備は『三国志演義』のように泣いているだけということはなく、先頭に立って激しく戦う傭兵隊長です。軍事的能力は非常に高く、諸葛亮も劉備の軍事能力を評価しています。
しかし、やはり地域を支配していくときには知識人がいないとどうしようもないことが、どんどん戦って拠点をとってはすぐに失う繰り返しの中で、劉備にも分かってきたのでしょう。荊州の劉表(リュウヒョウ)の元に客将として置かれている時、知識人を懸命に探しました。
そして、「赤壁の戦い」の前年である207年を迎えます。劉備は200年の「官渡の戦い」の時には袁紹(エンショウ)の側について、負けました。その後は劉表のもとに身を寄せて客将として暮らしていたのです。そして207年に劉備は、諸葛孔明(亮が名前だが、日本では字 <あざな>の孔明で呼ぶことが多い)を三回訪ねて行きます。
こちらはおそらく本物だろうと思います。襄陽の古隆中という場所に、もちろん後から作った建物ですが、「三顧堂」というものが残っており、劉備がここに三回訪れて諸葛亮を招いたということになります。
●諸葛亮の優れた外交力と雅言
『三国志演義』ではありませんので、諸葛亮は風を呼ぶような魔術めいたことはやりません。しかし、赤壁の戦いで孫権と結ぶことができたのは、彼の持っている外交力によるものです。
具体的には、この時代には、まだ言葉があまり通じなかったという事情があります。おそらく劉備と諸葛亮では、使う方言がだいぶ違ったのでしょう。日本でも「方言」という言葉がありますが、当時すでに『方言』という本がありました。劉備と張飛は北京周辺の出身なのでほぼ同じですが、関羽や諸葛亮はかなり離れたところの出身なので、込み入った会話になると分からないはずなのです。
ところが、知識人たちは「雅言」という共通語をしゃべることができるため、外交としてどこに行っても話をすることができます。今でもそうですが、外交では、例えばヨーロッパではラテン語を踏まえて話さなければ話にならないということがあります。諸葛亮は古典を踏まえた話がきちんとでき、人的ネットワークを持っていました。具体的には兄の諸葛瑾が孫権に仕えていて、諸葛瑾と魯粛は非常に親しい仲です。こういう人がいないと、そもそも外交は成り立たないのです。
この力によって、劉備は赤壁の戦いで、あまり戦いはしないものの参加することができました。そして、得たものは一番多く、この戦いをきっかけに荊州の南部を手に入れ、隆中対、すなわち諸葛亮の「天下三分の計」といわれる考え方にしたがって、益州をとって国をつくることができたということになっています。
●劉備の「情」に基づく大敗北
このようにして国をつくった劉備ですが、劉備の良さ・面白さはどこにあるのか。
三国時代はこのような形になりますが、最初は魏が220年にできます。そこで漢が滅ぼされたことを認めず、「漢は自分たちだ」ということでつくったのが蜀漢です。呉が国になっていくのは229年と、少し遅れます。呉という国が独立して皇帝になる理由はあまりないため、孫権はなかなか即位できなかったのです。
呉の孫権がまだ皇帝になっていない頃、蜀漢にとって一番の敵はどこかというと、漢を滅ぼして中原を支配している魏...