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関羽はどのような神としてまつられたのか?

関羽の「義」と現代中国の関係(2)国家祭祀と山西商人

渡邉義浩
早稲田大学文学学術院 教授
情報・テキスト
解州関帝廟(中国・山西省)
京劇では、関羽を演じる役者は、化粧のときわざとその顔にホクロや黒い線をつけ、完璧な「くまどり」にはしない。神として扱われる関羽の存在に対して、一歩引いてみせる遠慮と礼儀のための伝統なのだという。ここでは関羽が死後、「神」としてまつられてからの経緯を、早稲田大学文学学術院教授の渡邉義浩氏に解説いただく。(全3話中第2話)
時間:08:45
収録日:2018/03/15
追加日:2018/08/03
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≪全文≫

●関羽を「神」としたのは天台宗のお寺が始まり


 続いて、関羽が神としてまつられていく過程をお話ししていきたいと思います。

 関羽は、最初から神様として特別扱いを受けたのではなく、唐代に入ってからのことになります。天台宗は、天台智ギが始め、日本にも最澄によって入ってくる仏教ですが、その開祖智ギとも関わる玉泉寺というお寺が関羽終焉の地に近いため、最初に彼をまつります。これが、神として関羽がまつられた最初になります。

 そこでも、関羽は主神とされたわけではありません。日本ではバラモン教の神様が、「○○天(毘沙門天など)」として扱われますが、それに似た守護神としての扱いです。最初は、玉泉寺という寺を守る武力の神様という形で、関羽への祭祀が始まっていきます。


●国家の守護神として「王号」を受ける関羽


 関羽が本格的にまつられるのは、宋の時代からです。日宋貿易などで、平清盛が貿易相手とした王朝ですが、宋は中国の歴史上最弱といわれる王朝で、戦いがあると熱心に神にすがりました。宋の皇帝は、国家を守ってもらうため、関羽に称号を与えたのです。

 北宋最後の皇帝となった徽宗(きそう)は、文人皇帝として有名で、日本にも彼の描いた作品が入り、国宝に指定されています。この皇帝が、関羽を「忠恵公」と呼び、さらに「武安王」や「義勇武安王」と、王としての称号を次々に与えていきます。北宋が滅んだ後、南に移って南宋という国家を始めた高宗は、「壮繆義勇王(そうぼくぎゆうおう)」の名を与えました。関羽を神として扱っているわけです。

 ただ、南宋の高宗は諸葛亮にも「威烈武霊仁済王(いれつぶれいじんさいおう)」という名で、神としての称号を送っています。神としての称号は、長ければ長いほど偉い。関羽は「王」の前に称号として4つ、諸葛亮は6つ漢字が付いていることでお分かりだと思いますが、まだまだ諸葛亮の方が格上でした。宋の時代、国家にまつられたといっても、関羽の地位はまだまだ高くはなかったということです。


●塩を商う山西商人の発展の拠り所として


 関羽の地位がより高くなるのは、元の時代からです。元すなわちモンゴルが支配したときの中国は、国家収入の2分の1を塩が占めていました。元王朝は中国支配をどちらかといえば大ざっぱに行ったのですが、その支配は塩に大きな税金をかける「塩税」を中心に行いました。

 中国で塩の取れる地方は比較的限定されているのですが、その中でも非常に大きな産地が河東郡の解県というところです。ここは関羽の出身地でした。「解池」と呼ばれる大きなソルトレークからは、今でも塩が取れます。この塩が山西商人発展の源であり、山西商人たちは、塩の守り神として、関羽を信仰していきます。

 彼らは塩を売って歩くわけですが、売り歩いた先で成功を収めると、そこに関羽の廟というもの(関帝廟)を建てます。商人たちにとって一番恐ろしいのは、商売に行った先での行き倒れ、例えば病気になったり、財産を奪われたり、亡くなってしまったりするときに一人きりになってしまうことです。

 商人たちは各地に関帝廟を造り、そこに共同でお金を蓄え、亡くなった場合にはそこにお墓を造って、関帝廟が管理をしていく。あるいは、孤児になった子どもに対して、関帝廟がお金を出していく。そういう形で、単なる信仰というよりも山西商人が発展していくための拠点として、関帝廟が各地に造られていきました。


●武神から財神へ、さらに国家の守護神へ


 このように発展していった結果として、もともと「武神」であった関羽の性格が、商売の神様である「財神」へ変わっていきます。

 特に山西商人が大発展をしていくのは、中国の最後の王朝となった清(日清戦争の相手だった清王朝)です。清が明を破って中国に入ってくる時から、山西商人は清の財政を支え、軍需物資を輸送したりして動きます。したがって、「八旗(はっき)」と呼ばれる、幕府でいう旗本に当たる清の位の中にも、山西商人出身者が食らいついています。

 したがって、清が戦いに行く場所には必ず山西商人が同行し、食料や武器などの軍需品を輸送していきました。ですから、将軍は関羽をまつっていきますし、戦いで勝ったときの報告書には、「髭の長い顔の赤い神(関羽)が現れてきて、その結果、勝った」と書かれるようになるのです。

 日清戦争の講和条約は下関条約ですが、その際に訪れたのが李鴻章という官僚でした。清朝の中でも非常に開明的で、ヨーロッパの文化を取り入れる洋務運動の推進者でした。その李鴻章ですら(という言い方でいいと思いますが)、戦いの時に関羽をまつるという清の将軍がやってきたことをそのまま踏襲しているのです。


●清が滅びた後も残る関羽信仰の秘密


 このように、軍と結合することにより、...
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