●うまくいかないときは最も納得がいく視点から眺めて諦める
では、諦めるということで、自分のやった行動の結果にどうやって接していくか。実はここに、デカルトの処世術は私たちが毎日穏やかに暮らすためのものである、というテーマにつながってくる大事な論点が出てきます。
ダイヤモンドのような肉体をもつことは不可能である。翼をもつことは不可能である。では一体何が可能なのか。それは自分の思想や欲望のほうを変えることである。ここまでよろしいですね。ダイヤモンドの肉体はもてないので、不可能と考える。そう考えることは可能である。ダイヤモンドの肉体はもてないと考えた結果、諦める。それは可能なことで、私たちには諦めることはできるわけです。
そうなってくると、諦め方が問題になってきます。どうやって諦めたらよいか。つまり、自分にとって最も納得いく視点からうまくいかなかったことを眺めて、自分を慰めるのです。いろいろな自分の納得のさせ方があります。いろいろな見方があります。ダイヤモンドの肉体をもてなかったその事実を前にして、湧き起こってきたさまざまな感情をコントロールするうえで、さまざまな視点から、ダイヤモンドの肉体をもつことは無理だった、不可能だったという事実に、私たちはアプローチすることができます。
どうして自分はそのように生まれてしまったのかとも思えるし、ダイヤモンドのようなキラキラした肉体よりは普通の身体のほうがよいと思ったり、あるいはダイヤモンドは固いけど、実は案外簡単に燃えてしまうものだと自分を慰めてみたりと、いろいろな仕方で慰めることができ、いろいろな理由を自分でつくることができるわけです。ダイヤモンドの肉体をもてなかったときの諦め方として。
その選択肢はたくさんあるわけですから、自分の一番好きな、納得のいく選択肢で自分を慰めよ、とデカルトは言っているのです。最も納得がいくというのは、実は自分にとって穏健な意見です。誰かが言っているからというものではなく、最も好都合な、或る角度から見て「最も堪えやすい」角度から自分が取った行動、あるいは自分に降りかかってきた行動の結果にアプローチしていく、ということです。
●毎日を最も穏やかに過ごすやり方
もう一度最初から見てきたいと思います。最初は何か行動に移そうとしたとき、とりあえず穏健に振る舞ったほうがよい。極端な行動は避けたほうがよい。あまり奇抜な立ち振舞いはよしたほうがよい。法律は守ったほうがよい。習慣はできるだけ守ろう。日本であれば靴は脱いであがりましょう、あるいはお箸でお茶碗を叩いてはいけない、そういう決め事です。あるいは宗教上の決め事、例えばイスラームの人やユダヤの人に豚肉は勧めない、といった決め事は守っていこう、ということです。
実際行動に移したとき、迷うことが出てきても、とりあえず最善の判断を下して最後までやってみよう。最後までやってみたら、何らかの結果が出てきます。或る程度うまくいった場合もあれば、全然うまくいかない場合もある。全くうまくいかなかったり、100パーセントうまくいったりということはないでしょう。まあまあうまくいったり、あまりいかなかったりというグラデーションだと思います。その結果にどうやってアプローチしていくか。自分が一番納得のいく解釈をすることです。それが、毎日を最も穏やかに過ごすやり方だと、デカルトは言っています。
●処世術の習得には長い修練と熟考が必要
でもこの処世術は、そう簡単には身に付かないと思います。ですからデカルトはこのような言い方をしています。特に三つ目である最後の格律についてですが、万事をそういう角度から、自分に最も都合が良い角度から眺める習慣がつくまでには、長い修練と何回も繰り返される熟考が必要だと、言っています。
どうしても納得がいかない出来事は、私にもあったし、皆さんにもあったと思います。これからもあるでしょう。中には誰かと死に別れるなど、つらい出来事もあったでしょう。そういうときには、一年、二年では飲み込めないつらい思いを、自分の中ではなかなかやり過ごすことができないと思います。けれどもなんとか生きていかなければならない。そのときに、自分が一番納得いく見方から、その飲み込めない思いをそれでも少しずつ飲み込んでいく、そういう練習をしてほしいと、デカルトは言っているのです。
ただ注意していただきたいのは、この三つの格律は、あくまでも「自分の思想を改革する」という一大事に取り組んでいるあいだ、(比喩でいえば)家を新築しているあいだの、当座の道徳だということです。デ...