●哲学書らしからぬ『方法序説』の巧みな比喩
フランス哲学を代表するデカルトの代表作が『方法序説』です。1637年に出た、彼の最初の本です。この『方法序説』ですが、実は哲学書という感じがしません。哲学書のイメージにもよりますが、哲学書というと、難しくて簡単には理解できないような書き方をしているというイメージが私にはあります。『方法序説』は、その限りで言えば、全く哲学書らしくないと言えます。どうしてか。
その理由の一つは、巧みな比喩です。これはもう文学書の範疇に入れてしまってもよいのではないかと思わせるほど、比喩がふんだんに使われています。その意味では、読んでいて非常に楽しい本で、一般に流布している哲学書というイメージがしません。今日はその比喩を熟読玩味してみたいと思います。
さて、デカルトは十代の時、イエズス会という修道会の運営する学校にいました。イエズス会という修道会について、ご存じの方もいると思います。なぜならば、日本にキリスト教をもってきたフランシスコ・ザビエルがイエズス会の所属だったからです。このイエズス会という修道会がフランスで運営していた超エリート校、本当のエリートを育てる学校だったので、デカルトは非常によく勉強しました。英才教育を徹底的に授けられたわけですが、その成果は惨めでした。でも彼は頑張ったのです。彼が怠けていたからではありません。なぜなのか。
本当に確実だと思えるものには、全然学校では出会えなかった。世間でも出会えなかった。そればかりか自分は、実は非常に多くの偏見に深く絡め取られているということに気付いた。そうデカルトは述べています。
では一体、彼はどうするか。早速、『方法序説』第二部冒頭を読んでみたいと思います。なかなか興味深いことが述べられています。
●学校や政治の改革よりも、自分の思想を改革する
「一個人が国家を、その根底からすべて変えたり、再建するために転覆したりして改革しようとすることは、まったく理に反しているし、さらに学問全体の仕組みや、これを教授するために学校で確立している秩序を改革しようとするのもまったく理に反している。けれども、私がこれまで受け容れ信じてきた見解のすべてに関して言うなら、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてしまう以外に最善の企てはありえない。」
少し長かったので、もう一回読んでみたいと思います。ここでは何かと何かが対比されています。それに注意しながら、皆さんもここに出てくる引用文、あるいは私の声を聴いてみてください。
「一個人が国家を、その根底からすべて変えたり、再建するために転覆したりして改革しようとすることは、まったく理に反しているし、さらに学問全体の仕組みや、これを教授するために学校で確立している秩序を改革しようとするのもまったく理に反している。けれども、私がこれまで受け容れ信じてきた見解のすべてに関して言うなら、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてしまう以外に最善の企てはありえない。」
どうして「なかなか興味深いことが述べられている」とお話ししたかといえば、哲学者デカルトは政治改革、教育改革は理不尽だと言い切っているからです。政治改革などしても仕方がない。教育改革などしても仕方がない。つまり、社会の仕組みを変えても仕方がないと言っているからです。では変えるべきは何か。
自分の思想を変えなくてはいけない、とデカルトはここで言っているのです。『方法序説』第二部の表現を使うなら、「自分の思想を改革する」ということです。国家や教育システムではなく、自分の思想を改革する、ということです。
でも、これは一朝一夕でできることではありません。少しずつ偏見を取り除き、自分の知的なパフォーマンスを改善して、確実だと思われる知識を一つずつ手に入れていく他ありません。今日明日でできるような仕事ではないのです。
●「偏見を取り除く」とは、社会的な常識を疑うこと
それだけではありません。「偏見を取り除く」ということは、社会的な常識を疑うことにも、実はつながっていきます。一般にはこう考えられているけれども本当にそうなのかと疑い始めることを、「偏見を取り除く」ということは含んでいるからです。ちょっとおかしいな、どうしてだろう、もしかしたらこれは偏見ではないのか、といった違和感をそのままにしない、ということです。
となると、どうなるかというと、当然のことですが世間や同僚、知人、友人、家族などと軋轢を生みます。「やっぱり君が考えていることはおかしいよね」とか、「お父さん、やっぱり自分は違うように...