●『省察』は黙想である
次に、彼は〔『方法序説』の刊行から〕四年後、1641年にパリで『省察』という本を出します。ここにデカルト著作集をもってきましたが、この第二巻にその全てが費やされています。
「省察」というタイトルですが、高校の倫理の教科書には「しょうさつ」という振り仮名がふられている場合もあるので、「しょうさつ」とご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんが、私たち専門家のあいだでは「せいさつ」と呼んでいます。
省察という日本語を当てられた原語は、ラテン語で言うと「meditatio」、フランス語だと「méditation」、英語だと「meditation」ですが、そもそもキリスト教の言葉です。「meditation」をキリスト教用語として日本語に訳す場合、「黙想」となります。これは、或る特殊な精神の使い方を意味しています。
第一に、一貫して持続する注意作用を前提としています。何かを注意深くずっと考え続けることです。継続した精神の使い方ということがまず、黙想ないしは省察という単語に込められています。
第二に、或る一つの考察対象にいろいろな角度から迫っていくことです。つまり、一つの考察で終えるのではなく、その一つの考察対象にいろいろな角度から迫っていくということです。
第三に、考察対象と深い関係を結ぶことです。単に表面的に考えるのではなく、考察対象に深く入り込んでいくということです。
そういった精神の使い方をする、あるいはそういった精神の使われ方をしているとき、黙想や省察という日本語が使われます。それが英語で言う「meditation」になるわけです。
●宗教的な要素を換骨奪胎しつつも宗教書の体裁に倣った小さな本
さて、黙想はキリスト教用語であると先ほど申し上げました。では具体的には一体何が考察対象になるかというと、いくつかありますが、キリスト教の中で最も理解することが難しいと言われている「三位一体」の考え方です。三位一体とは、父なる神と子なるイエス、そして精霊というこの三つが一体だという考え方です。やはり三つのものが一緒というのは理解しにくい。そこを頑張って理解するために、「このような精神の使い方をしてください」というのが、先ほどの黙想という日本語のもとになったヨーロッパ語に込められています。
デカルトは、なんとこれを換骨奪胎します。宗教的なニュアンスを全部取り払い、人間の精神とは一体何なのか、人間と対峙している神とは一体何なのか、そしてそもそも私たち人間を取り巻いている、このような物体とは一体何なのか、ということを、先ほど申し上げた三つの特徴からなる精神の使い方をもって考え抜こう、というのが『省察』という本の内容なのです。1641年に第一版が出て、翌1642年に第二版がアムステルダムで出ました。
これが、デカルトが公刊した二番目の本です。ここに、彼が公刊した本の原典の復刻版をもってきました。当時と全く同じサイズで、非常に小さな本です。先ほどもお見せした『方法序説』の岩波文庫版に比べても小さい。どうして小さいかというと、当時の宗教書、とりわけ祈祷書、すなわちお祈りの本の大きさを真似ているからです。お祈りの本というのは、携帯する必要がありましたから、あまり大きい本だと持ち運びには向いていないということで、小さい本にしなければなりません。
ということで、彼は、もともとキリスト教用語であった省察というタイトルの本を、宗教的な事柄を換骨奪胎しつつも、しかし宗教書の体裁に倣って小さな本にしています。これはイタリアで刊行されているのですが、1642年版の復刻版です。
●『方法序説』以上に破格の構成を取る『省察』
日本語訳は先ほどご紹介したデカルト著作集の第二巻にあるのですが、『省察』はなかなかに破格な本なのです。
『方法序説』も破格の本だったのですが、『省察』はさらに上をいく本です。なぜかというと、まずデカルトの本文があり、本文の後になんと当時の知識人たちから寄せられた反論が掲載されており、しかもその反論に対するデカルトの答弁が一緒になって出版されたからです。こんな本はどこにもありません。本論があって、その本論に対する当時の知識人の反論が一緒に付録として付いていて、さらにそれに対するデカルトの答えも一緒になっているのです。こんな本は、現代の日本でもそうは見かけません。という意味で、内容もそうですが、幾重にも作り方が特徴的になっています。
しかも『方法序説』と一緒で、全部で六部構成になっています。これは聖書の「創世記」を真似ているのです。神は六日間で世界を創造し、七日目に休みました。つまり、六日間というものを念頭に置きながら、六つのパート...