●誰も魂に興味をもたなくなった
執行 いろいろな歴史書を読んで感じるのは、ローマ帝国の末期は、今の民主主義的な末期よりはいいということです。本当の意味での主客転倒は起きていません。たとえば「頭の悪い人間のほうが利口より偉い」といった社会にはなっていません。今の日本は、なっています。
典型が読書です。僕が子供の頃は読書をしない人もたくさんいました。それでも、(読書)する人間を「偉い」とは思っていました。ただ「僕はしないよ」というだけです。
それが今は、「読書するやつはバカ」と言われます。僕も読書家なので、みんなに、そう言われていることがわかります。そういう社会になっているということです。いまは芸能社会でしょう。
また僕が、いまの小学生や中学生を見ていて思うのは、「勉強ができる子にコンプレックスを持つ子はいない」ということです。歴史を見ても、少なくともローマ帝国の時代もそうですし、少し前の日本でも、勉強ができる子に対しては、誰でもコンプレックスを持っていました。勉強ができない子供も、そうでした。それが当たり前だったのです。
ところが今はコンプレックスを持っている人は、僕のフィールドワークでは、いません。勉強ができる子は逆に「くだらねえやつ」だと言われています。
ホモサピエンスが神を求めて宗教を築き、哲学を築いてから、今のような文明ができましたが、僕はホモサピエンスの危機を感じます。読書する人がいなくなったのは、その一環だと思います。読書する人がいなくなったということを気楽に言いますが、人間が魂に対する興味を失ったということです。魂に興味を持っていれば、少なくとも読書に対する敬意が生まれます。「本当は読まなければならないけれど、俺は読めないんだ」と恐縮したり、言い訳したりすると思うのです。
魂に対する興味がなくなったことは、文明の危機を越えて、ホモサピエンスの危機だと思うのです。なぜなら、ホモサピエンスは、魂の屹立(きつりつ)だけでできた動物だからです。その魂とは何か、フランスの哲学者アランが規定していますね。「人間の人間たるいわれは、魂のためには肉体も投げ捨てるところだ」と。肉体よりも魂のほうが重要でないなら、人間ではないのです。今の人には、もうわからないでしょう。今の人は肉体のほうが大事なのです。
―― 犬猫と同じになるということで...