●魂の友となる読書
執行 いい人生を送った人とは、自分の運命だけに体当たりした人です。この人が一番、運がいいと思います。これを僕は「垂直」と言っていますが、横を見ている人は人生がダメになります。そして運命に体当たりするために一番重要なものが「読書」なのです。
読書は、「直の知り合い」ではありません。だから必ず「魂の友」になります。魂の友とは、友達の中でも水平ではなく、垂直の関係です。先祖や親と同じで、天に向かうものです。「天に向かう友だち」を得るのが読書なのです。だから、全部信じなければいけない。そして、そのまま実践しなければダメなのです。僕は『葉隠』もトインビーも、そのまま実践しています。
―― 自分の運命に体当たりしなければいけないわけですね。
執行 体当たりというのは、人の運命にしてもダメです。自分の家、自分の血といった、自分の運命に体当たりするのです。これは教えてもらうことはできません。だから本を読んで、過去の偉大な人の魂と触れ合って、偉大な人の魂を受け取った魂で、何かやってみるしかないのです。
そして失敗の連続によって悟るのです。僕もさんざん失敗してきました。自分の運命は、自分で失敗して掴むしかないのです。自分の運命は、親子だろうが夫婦だろうが恋人だろうが親友だろうが、誰にもわかりません。自分と、自分を生み出した宇宙だけが知っているのです。でも宇宙は語りかけてくれません。そこで宇宙から与えられたこの生命は、体当たりして突破するしかないのです。
その体当たりをするための材料、勇気となるのが、過去の偉い人もそうしてきたと知ることです。「楠木正成も過去にこうしていた」と知ると、「よし、俺もやるぞ!」と行動できます。そのために読書が必要なのです。「本当の本」には本当のこと以外書かれていませんから、これを信じなければダメです。
―― 「ヒトラーも新約聖書もマルクスも本当のことを言っている」とおっしゃいました。その中で自分の魂の友となる人に出会うには、どうすればいいでしょう。
執行 やってみなければわかりません。結果として、わかるのです。
―― 誰にでも没入するのですか。何かピンとくる人がいたのですか。
執行 ピンとも来るし、没入もします。没入して、だんだん自分の人生で仕分けができてくるのです。だから運命が仕分けしてくれるのです。
たとえばマルクスとキリストとヒトラーの本のうち、どれが自分の運命なのかは、誰にもわかりません。わかるのは神様だけで、だからやってみるしかないのです。やることで、何となくわかってきます。それしかできなくなってくるのが運命で、そのためには「体当たり」でやるしかないのです。
●「羯諦、羯諦」しかない
人間の本質を書いたものの一番優れた1つに『般若心経』があります。仏教の経典の中でもエキス、精髄と言われるものですが、『般若心経』はすべてを否定することから始まります。これは哲学的にいうと、すべてを肯定することでもあります。そして『般若心経』の最後には、「ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー」という呪文みたいな言葉が出てきます。この「ギャーテー」は古代インド語であるサンスクリット語で「突進せよ」「行け」という意味です。「ただひたすらに行け」と。すべてを肯定または否定した先に、「突進だけが人生」だというのが『般若心経』の思想でもそうだということを、『般若心経』を勉強したときに理解しました。
人生は誰にもわからない。これを今の人はわかっていません。誰にもわかってないものを掴むには、いろいろな人の人生と語り合い、自分が気に入ったものをどんどん実践するしかないのです。
僕は『葉隠』に書かれた武士道の死の哲学が死ぬほど好きで、もう60年以上、その思想を実践しています。経営もそうてすし、今こうして話しているのも『葉隠』の実践です。自分の人生は投げ捨てているのです。
『葉隠』のほかにも好きな本がいろいろあり、たとえばミルトンの『失楽園』、ダンテの『神曲』、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』や『ファウスト』などです。これらは、なんにも変わらないのです。『葉隠』とダンテはイコール。『葉隠』と『万葉集』もイコール。『葉隠』と『若きウェルテルの悩み』もイコールなのです。
ジッドの『狭き門』に、アリサという女性が出てきます。ジェロームとアリサの純愛の物語が『狭き門』です。この『狭き門』の純愛も『葉隠』の死の哲学とイコール。全部イコールなのです。
「いろいろなものの魂に感応してはダメではないか」と思うのは、やっていないからです。最初はみんなそう思いがちで、確かに自己を失うときも一回あります。でも一回失わないと、自己は掴めません。ゼーレン・キルケゴールという、デンマークの有名な実存...