●「怖さ」と「混沌」がないものはダメである
執行 崇高というのは、きれいなだけではなく、何か恐ろしいものです、崇高というものは、仰ぎ見る。仰ぎ見るものというのは、怖くなければダメです。だからそこに不良性が入ってないものはダメです。怖くなければダメ。昔の親父です。
―― だから不良性なのですね。
執行 そこは不良性から出てくるということです。
―― 怖さは、不良性から出てくるのですね。
執行 出てくる。反骨精神です。それがなかったら全然怖さがない。怖さがなかったら、人間はまったく成長しない。やはり、成長のもとは「恐怖」です。
聖書の箴言に「主を畏れることは知識の初めである」という言葉がある。これも「主を畏れること」であり、「主を愛すること」ではないのです。神を愛してはダメで、神は恐れなければダメなのです。だから、上役を恐れなければダメ、尊敬する人を恐れなければダメ、親父を恐れなければダメ、同じです。それを逆に今の人たちはきれいごとでとるから、ダメなのです。
―― そのとおりですね。
執行 好きなだけではダメなのです。
―― そうでしょうね。しかし、本当に気を付けないと、そういう人をつくってしまいますね。中途半端な秀才みたいな人を集めることになってしまいます。自分の学んだ些細なことだけ振り回したがる人たちです。
執行 やはり、先ほどいった「混沌」がないのです。混沌のない人は、昔から秀才であっても「教科書秀才」と言われます。では昔の人でも混沌のある人は何でできたかというと、読書です。膨大な本を読んでいました。
このあいだ少し話にも出ましたが(テンミニッツTV講義「人間的魅力とは何か(1)魅力ある人がなぜ消えたか」)、昔の偉い人と、今の偉い人は全然違う。昔の偉い人は何でも知っている。人間的魅力があったし器量も大きかった。小林秀雄も村松剛も、僕が会った人はみんなそうです。子供の頃から読み続けた文学など、損得ではない読書です。今の人は自分の役に立つものしか読まないから薄っぺらいのです。
村松剛のすごいところは何かというと、あの人の政治理論などは、当然、本で読んで知っていますけれども、僕が会った最初に感動したのは、あの人の生活の知恵なのです。どうでもいい知り合いのことを全部知っている昔の大人というか、大家族を率いている長老というのか。もうあれだけの学...