●82年、教科書問題が抗日運動の引き金になった
前回、現在の中国のこの歴史認識、歴史の記憶論争というものと、1982年に中国で起こった大問題が似ているという話をしました。それはどういうことかということをお話しします。
この1982年に何が起こったか。これは国交正常化ちょうど10年の年ですが、そのときに、日本の文部省(当時)が、教科書検定において、歴史の教科書の記述変更を要求したという報道がなされます。これは後に誤報だったと分かるのですが、中国に対して行った戦争を、従来は侵略戦争であったとしていたものがトーンダウンして、むしろあれは自衛戦争であったとか、例えば南京大虐殺の記述を減らすとか、日本の国内の論調が、急激にあの戦争の評価を見直す方向に向かっているということが言われました。これが、世に言う歴史教科書の書き換え問題(歴史教科書問題、教科書誤報問題)です。
それが伝わりますと、中国では、全土で猛烈なデモが始まります。国交正常化のときに、「あの戦争は日本の一部軍国主義者が犯した罪によるもので、中国民衆と日本の民衆が等しき犠牲者であるから賠償を請求しない」という哲学といいますか、合意事項をつくって国交正常化したのに、それから10年経ってみれば、「何だ、日本はあの戦争は自衛戦争だとか、侵略ではなかったとかと、そのように見直しをしようとするのか」と。「それならば、わが中国はそれを忘れないために、中国全土にあの日中戦争に関わるような記念館をつくりますよ」という指示が出るのです。
そのことによって、それから3年ほど経ちますと、例えば、南京のいわゆる虐殺記念館、瀋陽にある九・一八歴史博物館、偽満州国記念館、北京・蘆溝橋の中国人民抗日戦争記念館、こういったものが、1983年、4年、5年、6年ぐらいに矢継ぎ早にできていきます。しかも、各地域にあった日中戦争に関わるような名称の記念館が、軒並み抗日記念館という名称にどんどん変わっていきます。
それはつまりどういうことかというと、「日本がそれを忘れたいのであれば、われわれは歴史の記憶を留めるために、中国全土に日中戦争で何があったかという資料を集めて公開する」ということなのです。それまで、中国の中にはそういったものがなかったのです。
●日本の「歴史の見直し」と中国の「歴史の記憶」をめぐる動き
これは日本側にとっては大ショックでした。なぜかというと、その当時というのは、中曽根康弘首相と胡耀邦総書記の日中関係の蜜月時代と言われる時代です。しかし、一方では、その歴史をめぐって、日本がそういう姿勢であるならば、われわれは忘れないためにやるということなのです。
韓国の独立記念館、抗日記念館というものも、実はこれがきっかけでできています。中国の場合は国家が金を出してそういった建物が南京ほか各地にできましたが、韓国は民衆が寄付をしてつくりました。民衆のポケットマネーでできたおかげで、非常に毒々しいというか、生々しいというか、のこぎりでひかれる蝋人形展示があるような記念館になっています。民衆が金を集めてつくったもので、ソウルの郊外にあります。
1980年代、日本が経済大国になり、もう日米が拮抗したと言われた自信満々の中曽根さんの時代、「日本はアジアの不沈空母だ」「日米同盟は不滅である」「日本はアメリカを追い越すのだ」という勢いが出てきている頃に、日本の中で歴史の見直しが始まる。「それならば日本よ、中国の民衆は忘れないためにつくりますよ」ということでできたのが、今、中国にある100を超す数の抗日記念館というものになってくるわけです。
この当時の動きと、現在の習近平さんの主導の下に進めている「歴史の記憶」の動向、この100年間の中国の屈辱の記念日と事例を全部洗いだして、この日はこういう記念日、こういうシンポジウムをやれ、これをやれと言っている動きとが、そっくりなのです。
●世界に発信する中国。今回は抗日記念館ではすまない
では、なぜ中国はそこまで追い込まれていったか。
別にここで安倍政権の批判をするつもりはありませんが、たまたま安倍さんが総理になられた頃から、歴史認識問題、例えば「侵略という言葉は国によって違うのだ」とか、さまざまな言い方がありました。また、靖国参拝もしてしまいました。こうなると、どうも状況は、1982年、3年に日本の国内で自信満々になって歴史教科書の書き換え問題が出てきたり、「われわれは独立戦争、アジア解放のために戦ったのだ」というような論調が出てきたりしたときと似ています。
あれから20年、30年が経ち、日本は今また歴史の見直し、靖国参拝、そして侵略の歴史やそういったものは国によって違うのだという、そういう考え方になるのですか、ではわれわれも...