●「体当たり」だけが武士道
―― おそらく『葉隠』といって一番皆さんがよく知っている言葉が、先生も十戒の第一戒に挙げられた「武士道といふは、死ぬ事と見附けたり」でしょう。
執行 これが一番重要で、それを言えばもう終わるほどです。何もかもが、死ぬために生きているのが武士道です。だから武士道は、武士のものではないのです。一人の人間として生まれたら、死ぬ気で物事に体当たりして死ぬ気で何かに挑戦する。そうすれば、それは全部、その人の武士道です。僕はそう捉えています。
だから僕の根本思想は、「人生は体当たり」です。体当たりだけが武士道で、本来、細かい話は要りません。僕に言わせればキリストも釈迦も、武士です。全部体当たりして生きたからです。何に体当たりしたかは関係ない。何でもいいのです。
西部劇に出てくるビリー・ザ・キッドも、僕に言わせれば武士です。僕は西部劇も大好きで、人に推薦している映画に西部劇もたくさんあります。西部劇に出てくる人物は悪いやつばかりですが、僕は彼らの中に武士道を感じます。
自分が信じるもののために命懸けで生きて、殺されても文句を言わない。昔の西部劇では殺されるときに、大抵「俺は不覚を取った」と言っています。人のせいにしないのです。自分がしくじったから殺された。その思想です。ビリー・ザ・キッドでも誰でも、死ぬときはみんなそう言っています。
西部劇の名手として知られる映画監督のジョン・フォードの作品を見ると、大抵主人公が死ぬときにこのセリフを言わせています。だからジョン・フォード自身が、武士道の人なのだと思います。ジョン・フォードはアイルランド移民の子で、先祖はアイルランド人です。アイルランド魂をアメリカの西部劇に投影しているのです。アイルランドは歴史が古い国ですから、アイルランド人の中にも武士道が生きていて、その象徴がケルト神話だと思います。
―― 「不覚を取った」というのは、「嵌められた自分が悪い」「騙された俺が悪い」と。
執行 当然です。戦争でも何でも負けた人間が悪い。戦争が悪いのではなく、負けることがダメなのです。
―― まさにそこで不覚を取っている。
執行 そうです。
―― 『葉隠』の「死ぬ事と見附けたり」で言っているのは、逆に「死を覚悟して突っ込めば、生き筋が見つかる」ということでもあります。
執行 そうとも言えます。
―― 今の先生のお話も「死ぬ気でぶつかる」ということでしたが、おそらく人間の生き方には、二つのタイプがあるように思います。自分がやることに向かってワーッと突っ込んでいくタイプと、最後までウジウジしてできないタイプです。「やるぞ」というタイプの人にとっては、「死ぬ事と見附けたり」はまさに後ろを押してくれる思想だと思います。それができない人の場合、武士道をどう解釈すればよいでしょう。
執行 そんな人は、武士道では問題外です。解釈する必要ありません。昔ならそういう人は卑怯で、臆病で、情けない人生というだけで、まったく意に介する必要はありません。武士道とは、死ぬ気でやる人間のものです。死ぬ気でやる人間の思想がどうあるべきか議論するのが武士道です。「武士道がわからない人は、どうすればいいですか」などという議論自体がありえません。これが現代のヒューマニズムの汚染で、すぐに弱い人間、ダメな人のことを言うのです。
たとえば高校生の武士道を言うと、受験勉強なら死ぬ気でやる受験勉強です。それができない人は、武士道どころの話ではありません。生き方とは無関係で、人生論にもなりません。逆に入りたい大学のために死に物狂いで勉強している人間には、武士道の話は通用します。
僕が子供の頃は、大学受験で志望校を落ちて自殺した人もたくさんいました。今はもういません。今の自殺は、昔とは意味が違います。本来自殺は、仕方がないことです。死ぬのも自由ですから。それが今の社会は「何でも自由」と言いながら、「自殺はいけない」と言っています。これもおかしな話で、人間は生きるのも自由なら死ぬのも自由、失敗するのも自由です。何もかもすべて自己責任で、それが『葉隠』の考え方です。
―― ここは現代人が、よくよく考えなければいけないところですね。
執行 そうです。一番ダメなところです、現代人の。
―― 現代人が一番間違えるところです。「おまえは何をするんだ」というところが一番大事になるということですね。
執行 武士道は、成功するかしないかも関係ないのです。「やるか、やらないか」ですから。「成功したい」というのもダメ。要は「やるかやらないか」。突っ込んだかどうか、体当たりしたかどうかなのです。
●自己の運命は本音でぶつかれ
―― もう一つ現代的な視点でお聞きしたいのですが、例えば佐賀藩の山本常朝であれば...