●崇高なものにわが身を捧げる
執行 僕は全部体当たりしているから、相手も本音が出るのです。だから僕のことを嫌いな人は、ごまんといます。それは仕方がないことで、それを覚悟して体当たりを繰り返していたら、自分の運命がわかります。
運命がわかれば、僕を見てもわかるとおり、死ぬ気で体当たりしてもなかなか死ねません。これは結果論ですが、社会というのは、けっこううまくいくものです。僕はあらゆる人に嫌われましたが、何もまずいことはありませんでした。だからほかの人も、自分の運命をつかんで運命のとおりにやれば、必ずうまくいくということは言えます。ただし運命でなければダメで、ここが難しいところです。
―― ここが難しいですね。
執行 運命は、体当たりをしないと出てきません。だから僕は武士道の一番大きい思想とは「Amor Fati」だと思っています。ラテン語で「運命への愛」という意味です。有名な哲学用語で、マルクス・アウレリウスの『自省録』に出てきます。武士道が好きなフランスの思想家モーリス・パンゲが「日本の武士道とは運命への愛」だと語っていて、僕はこの言葉が非常に気に入っています。僕は自分の武士道を「運命への愛」と、ずっと言い続けています。
自己の運命を愛さなければ、武士道は貫徹できません。自己の運命を愛すると、自分の信ずる思想のために腹も切れるし、死ぬこともできるのです。死ぬことができるというのは、自分を愛しているということです。愛さなければ、切腹なんてできません。武士である自己を愛しているから、自分の腹を切れるのです。
―― そこが今の幸福論とは違う幸福論ですね。現代風の幸福論ではない幸福論。
執行 もちろんそうです。現代の幸福論は、幸福論ではありません。幸福論で一番有名なのは、西洋だと『アミエルの日記』(フレデリック・アミエル著)や、カール・ヒルティの『幸福論』があります。いずれも僕と同じ意見で、昔に書かれたのでキリスト教に基づいています。キリスト教の信仰に基づき、キリスト教のために命を捧げ、キリスト教信仰のために他人に尽くし、他人のために自分の命を捧げるという人生論です。
とくに『幸福論』がそうで、武士道と一緒です。だから僕はカール・ヒルティも大好きです。僕がキリスト教の話をよくするのは、昔のキリスト教の信仰が非常に武士道的だからです。
―― キリスト教は、それこそ戦国時代に日本にやってくるわけですが、響き合うところがあったのでしょうね。
執行 だから戦国時代にいっきに広がったのです。信者のほとんどが武士ですから。もともと合っているのです。日本の武士道と合っている宗教は、仏教の中では禅です。あとはキリスト教です。
ただし、今のキリスト教と今の仏教はダメです。ヒューマニズムの太鼓持ちに成り下がって、いい人さんごっこをしているだけです。昔の命懸けだった頃のキリスト教や仏教の話です。
フランシスコ・ザビエルにしても、大変な波濤を越えて日本まで来ています。日本や中国に来る船の沈没率は、あの頃は半分以上でした。命懸けなのです。
―― しかも、どんなところかわからないところに乗り込んでいくという。
執行 そして伝染病でみんな死んでいきました。あの頃、日本に来た宣教師たちは全員命懸けで、だから武士であり、武士道なのです。
―― もう一つ、今のお話でうかがいたいのが、運命のために尽くす、キリスト教ならキリスト教に尽くす、誰かに尽くす、社会とか……。
執行 社会とか国家とか。
―― わが身を捨てて何かに尽くすということについてです。
執行 これが人間の根源です。この人間の根源が文化として確立したのが、日本では武士道、西洋では騎士道です。これが人間の文明が生み出した、一つの一番大きい文化の精華だと僕は捉えています。これは偶然ではなく、「人類とは何か」という話です。人類とは、僕は武士道や騎士道を生み出すためにできたと、僕は思っています。今の民主主義は一回、人類が頂点の文明に来て、それから下がりだした文明なのです。
―― 自分の運命のために命を捨てるとか、命懸けで行くという行為は、下手に解釈すると、すごく自己中心的で、自分のことしか考えていないようにも見えますが、もう一方で、いま先生がおっしゃった……。
執行 これは、やってみればわかりますが、「自己中心」とか「自分のため」というだけは、命は捨てられません。命懸けになれる相手は、必ず国家や会社、他人、または家族や愛する者などで、それ以外はありません。
自己中心者は、命なんて捨てられません。今の自殺は捨てているのではなく、腐ったのです。僕はよく「生息物が腐る」と言っていますが、動物が死んで道端で腐ったのと何も変わりません。人間の死ではないということです。人間が人間として死ぬとい...