●自分の宿命を「ダメ」と思う人は、もう一生「ダメ」だ
―― どんなに嫌な仕事でも全力で当たっていかないと、道は開かないのですね。
執行 「嫌なことでも」と言うと、ちょっと語弊があります。「嫌なことをやる」と思っていること自体が、「自分の運命を愛していない」ということになります。僕の場合、嫌だと思わないのです。そこは少し違うように思います。
―― 難しいところですね。
執行 僕はわりと子供の頃から運命が好きだったので、自分に与えられたことには何かの縁があると思っていました。何かの謂れがあって、そうなっているのだろうと。だから、運命にも当たる。最初から「嫌」と思ってやったら、たぶんわかりません。僕に言わせれば「嫌な仕事をやっている」などと言うこと自体、傲慢で生意気な考えです。
―― それが来たことに、ある意味、「縁」を感じる。
執行 そうです。縁と思って大切にする。小賢しい生き方がダメというのも、そこです。例えば友達の紹介で入ったとか、親のツテで入ったというのは、縁です。昔の人は、そういう縁を大切にしました。だから縁を大切にして体当たりすると、運命がわかるのです。これはもう絶対といえます。逆に好き嫌いで考えたらダメかもしれません。
―― 確かに武士の世界でも、その主君が好きかどうかよりも縁です。
執行 全部が縁です。
―― どの時代のどういう藩主の下で生まれるかは、自分では選べないわけですから。ある意味、ここで生まれたのが自分の運命。佐賀藩なのか長州藩なのか薩摩藩なのか、まったくわからないけれども、たまたま佐賀藩に生まれた。
執行 今であれば、日本人なら日本人に生まれたということも、全部そうで、縁です。縁が運命です。運命というのは、大きく言えば縁です。われわれが日本人に生まれたのも、一つの縁です。だから日本人に生まれたのなら、日本人として立派な人間になろうとしなければならない。日本人以外、なれませんから。日本人に生まれたのに、「フランス人に生まれればよかった」などと言ってフランス・コンプレックスを持って生きていれば、くだらない人間で一生終わりです。それが小さい形でも、全部同じということです。
―― 確かにそうですね。日本にいて「俺はフランス人になりたい」と、一生、思って生きているか。
執行 だから『葉隠』的な生き方をしたいと思う場合に、僕があらゆる人に言っているのは、やはり自分の宿命を認めることです。宿命とは、まずは生まれた家。日本人かどうか。フランス人だったら、フランス人でもいい。男か女かもそうです。これらは全部、宿命です。
この宿命を、自分が全部「よし」として掴まないと、運命はスタートしません。宿命の中に、運命があるのですから。運命は宿命から出てきます。宿命とは、終わってしまった運命です。自分の運命の中で、現在と未来のものを我々は「運命」と言い、過去のものは、もう宿命です。
「過去の宿命」を全部愛さないと、「次の運命」を愛することはできません。だから(自分の)宿命をダメと思う人はもう一生ダメです。たとえば簡単に言えば、生まれた家にコンプレックスを持っているとか、昔だと学歴コンプレックスを持っているとか。そういう人はもう一生、ゴミの生涯です。仕方ない話で、ケチくさいことを言っている自分が悪いのです。要するにテントウムシみたいなものです。
―― ケチくさい、自分の宿命を愛せないのは。
執行 当たり前です。僕は宿命が好きで好きで仕方ないので、信念もずれないのだと思います。
―― よくぞ、この両親のもとに生まれてきたと。
執行 そうです。うちはたまたま佐賀藩の武士で、奉行職をやっていました。昔の位で言うと600石取りの武士でした。600石取りの武士と言うと旗本ぐらいで、例えば「鬼平」と同じレベルです。どの藩でも、奉行とか第一線の役職をやる家柄です。
―― 現場指揮官的な。
執行 そうです。現場指揮官であり、職長のような立場です。だから僕は奉行職の武士が一番好きで、それ以外の偉い人は興味ありません。殿様も家老も、若年寄や老中も全部、興味ない。だから鬼平は好きなんです(笑)。
●武家も商家も農家も武士道
―― 自分が農家の家だったら、農家が好きだと。
執行 当然そうです。
―― 商売人だったら商家が好き。
執行 当然そう。
―― その感覚ですね。生まれたところをまず出発点として、どう歩いていくか。
執行 そして武士道は、商家も農家も関係ありません。日本人はみんな武士道で生きています。日本文化が武士道だからです。日本の商売も「士魂商才」と言うように、商売の中の武士道です。それが日本人なのです。日本の農業も武士道を持ち込んでいます。それが二宮尊徳です。農業の中に武士道を持ち込むと二宮尊徳になり、商業の中に武...