●ソフィスティケートのために必要な誠実さとは
―― 皆様、こんにちは。本日は本村凌二先生の「江戸とローマ」の講義で「父祖の遺風と武士道」というテーマでお話をいただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
本村 どうも。
―― 今回、「父祖の遺風」については、本村先生の『テンミニッツTV』講義でこれまでもいろいろご言及いただいています。やはりこれが武士道的な伝統との共通性が非常にあるということでしょうか。
本村 ええ。前にも言ったと思いますが、日本人とローマ人は意外に似ているところがあります。日本人はよくオリジナリティがないと批判されますが、実はローマ人も同じようなところがあります。ところがローマ人も、一旦自分たちが習得したものを磨き上げていく能力を持っています。日本人にも確かにそういうところがあるでしょう。
皆さんには信じられないでしょうが、かつて戦後すぐの時期には、例えばアメリカに渡った「Made in Japan」が粗悪品の代表のようにいわれました。世界中でそのような評価を受けていた日本製品が、今ではまったくそうではなくなっています。一旦習得したものをソフィスティケートしていく能力には、非常に優れたものがあるわけです。
その背景には、やはり一種の「人間としての誠実さ」というものがあると思います。物事をソフィスティケートしていくには、ごまかさないという資質が大事です。よりよくしていくような振りをして本当はごまかしているのでは、どうせボロが出てくる。長い時間をかけてよりよいものをつくっていくには、ごまかさない誠実さが必要だということです。
●誠実さの源、「父祖の遺風」と「武士道」
本村 その誠実さはどこでできてきたものかと考えたときに、ローマ人においては「モス・マイオルム(mos maiorum)」であり、日本人においては「武士道」ではないか。日本人は、キリスト教的な意味での共通の宗教を持っているわけではありません。武士道というと、『葉隠』とかいろいろな強面の武士道もありますが、私が思うのは、新渡戸稲造が書いた『武士道』でした。
新渡戸がそれを書いた経緯として、幕末から明治維新の頃、たくさんの日本人が欧米を訪れていますよね(新渡戸は文久2(1862)年の幕末生まれですが、実際に訪れたのはそれよりももっと後になります)。その当時、訪れた日本人を見て、欧米人は「非常に礼儀正しい」という印象を持っていました(見た目は小柄で格好悪いと思われていたかもしれませんが)。
そこで新渡戸に「なぜ日本人はあれだけ礼儀正しい振る舞いができるのか」と質問したそうです。欧米人にはキリスト教という宗教があり、その中でルールやエチケットを心得ていくのだが、日本人はどうもそのような共通の宗教を持っているわけではない。それなのに、欧米人にも負けないぐらいの礼儀正しさを持っている。その理由を、新渡戸は問われたのです。
新渡戸は最初に渡米した時、この質問に答えられませんでした。なぜわれわれには欧米人から評価されるようなところがあるのかを考えあぐねます。新渡戸は文久2年生まれですから、江戸の最も末期に生まれたわけですが、江戸の雰囲気は自分なりに知っていました。それで自分の中にある秩序や規律のような行動規範がどこから来たものか、考えた末、武士道に気がつきます。そして、訊かれたことへの答えとして『武士道』という本を書いたわけです。
新渡戸は、それを非常に達意の英語でしたためます。素晴らしい英語を駆使して、日本人の武士道はどういうものかを書いたのです。
●中世の騎士よりもローマ人が武士に比肩する理由
本村 日本に「武士」がいるように、ヨーロッパには「騎士」がいます。中世の騎士について考えるとき、比較の対象になりやすいのは「武士道」と「騎士道」です。しかし、私は、江戸について考えていく上でローマが非常に似ていると考えていました。つまりそれは、文化の成熟度において、古代ローマ帝国の時代に匹敵するのは、日本が江戸時代に入ってようやくそのレベルにきたということもあったからです。
武士道に匹敵するようなものがローマにはあったかというと、それは“mos maiorum(父祖の遺風)”が比較対象として出てきました。これは、中世の騎士道とは非常に異なるものです。
中世の騎士道は騎士としての振る舞いを規定したもので、「卑怯な真似はしない」「主君に対する忠誠を尽くす」ということはありますが、人間の生き方全体に関わるところは希薄ではないかと思います。女性に対して騎士らしい振る舞いをするというところはありますが、全体としてみると、日本の武士道のほうがもっと広い範囲に関わっているところがあります。
そういうものと比較するとしたら、やはり...