●ローマ建国の精神と敗者に対する仁愛
本村 (『武士道』におけるローマの記述は)いろいろなところにあります。一つは、ローマの詩人のヴェルギリウスがローマ建国の精神を次のように謳ったことです。
「敗れたる者を安んじ
逆らう者をくじいて
平和の道を立てることこそ
汝の業なれ」
つまり、敗れた者に対しては非常な憐憫の情をかけて、それでも逆らう者に対してそれはある程度くじかなければいけない。そういう中で「平和の道を立てることこそ汝の業なれ」とローマ建国の精神を讃えています。
新渡戸稲造はこの詩(詩の部分はラテン語で書かれています)を読み、「この詩を日本の紳士が読めば、あるいはわが国文学の中から、ひそかに盗んできた語句であると思うかもしれない」と言っています。「弱者、劣者、敗者に対する仁愛は、武士の美徳として特に賞賛された」というぐらい、同じ精神があったからです。
●新渡戸稲造が引いた熊谷次郎直実の伝承
本村 この時に取り上げられたのは、源氏の熊谷次郎直実の話です。「かつてその名を聞くだけで、人々に恐れられた」源氏の熊谷次郎直実について、以下のように記述されています。
「わが国の歴史上、最も決定的な合戦の一つ、源氏と平家が須磨の浦で戦ったときのことである。この猛将は、敵を追いかけ、そのたくましい腕で組み伏せた。このような場合には、相手が名高い武将か、自分と力量が劣らぬ剛の者でなければ、血を流さないことが戦場での作法であったので、彼は自分の名を名乗り、相手の名を知ろうとした。」
「しかし相手はそれを拒んだので、その兜をおしあげてみると、まだ髭もない顔立ちの美しい若武者であった。彼は驚いて腕をゆるめ、抱き起こして、『助けてまいらせよう。そなたの母のもとへ行け。熊谷の刃は、そなたのような者の血に染めたくない。敵に見とがめられぬ間に、早く逃げのびたまえ』と言った。」
この場合、「敵」というのは熊谷にとって味方ですが、早く逃げろと言ってやるわけです。
「しかし、この若武者は逃げることをこばみ、双方の名誉のため、この場で自分の首をはねるよう熊谷に頼んだ。」
「熊谷は、幾人もの敵の生命を断った刀を白髪頭の上にふりかざしたが、今日の初陣に先駆けしていったわが子小次郎の姿が目の前に浮かび、勇猛な心もくだけて、この平家の若武者平敦盛に逃げるようにすすめたが、どうしてもきかず、そのうちに味方の軍勢の足音が近づいてきたので、「もうこうなっては、名もない者の手によって討たれるよりは、この熊谷の手にかけたてまつり、後の供養もいたしましょうぞ」と言って、念仏を唱え、ふりおとした大刀はその若武者の血で朱に染まったのであった。」
ということで、後の供養を約束して彼を殺してしまうのですが、それはもう最後の名誉としてやっているということです。
「戦いは終わり、熊谷は凱旋したが、彼はもう勲功も名誉も思わず、武士を捨てて出家し、頭をまるめて僧衣を着て、西方浄土を念じ、西方に背を向けまいと誓い、諸国を行脚しながらその余生を送ったという」
というところで、この逸話は結ばれます。要するに敗れた者、それから弱者、劣者、敗者に対しては憐憫の情をかけるという、それこそ勇者の務めだというのがローマと非常に似ているというところですね。
●名誉のための責任の取り方
本村 他にもいくつもローマ史上の例が挙げられます。カトーやブルータスといったカエサル派と戦った人たち、ネロ帝の時代のペトロニウスなど、多くの古代ローマの偉人たちが、自分の名誉にかかわるときは自分から命を絶つことを行っています。それはやはり彼らが父祖の遺風を重んじ、カトーならカトー家、ブルータスならブルータス家の名誉のために自分の主義主張は守っていき、自分は自決するということです。
ペトロニウスはそのような傑出した人物の典型です。ネロ帝は彼の持っていた立派な壷が欲しくなる。壺のために彼を殺したわけではありませんが、ペトロニウスはセネカ同様ネロ帝の意思に反することを始めます。というのもネロ帝があまりにひどい状態だったため、黙って見過ごすわけにはいかなくなっていたのです。結局そのために、ペトロニウスは自害を命じられます。
ペトロニウスの面白いところは、自分の所有する貴重な壷を「ネロ帝は絶対に欲しがっているに違いない」と言って、目の前で壊させるのです。その後、自分も死んでいく。そのようにして、自分は自害するけれども、ネロにいい思いはさせないという気概を見せつけてやるところがありました。
それから、(新渡戸は)ソクラテスの例も挙げています。ソクラテスは若者たちを扇動したという...