●刀を抜かずに死んだら、取り潰し
執行 僕の経験では失敗したもののほうが、うまくいきます。それがわかれば体当たりなんて、本当は勇気の要ることではありません。本当に体当たりして失敗したら、自分がどんどん、どんどん成長するだけです。本を読むより、よほど早いです。
―― 体当たりして逃げないわけですから、失敗したら「自分のもの」として受け止めて、もう一回、挑んでいくという。
執行 そういうことです。ただ今の人が「体当たり」といっても嘘です。そういう複雑な時代で、体当たりそのものが嘘という人が多い。
―― 言うは易く行うは難し、というところですよね。
執行 家族問題と同じです。今の家族で僕は愛情がある家族を見たことないのに、みんな「愛している」と言っています。昔と比べたら、すごく表面的にはいい関係です。でも昔は家族の姿を見ると、非常に微笑ましい楽しさがあったのに、今は感じません。家族が集まっていると、いやな感じです。エゴイスティックで、自分たちだけで称え合って褒め合っているような。
―― たしかに、現代風な感じですね。
執行 そして嘘っぽい。嘘だと思います。
―― 魂のぶつかり合いがない。
執行 時代が違うといえば、違うのでしょうが、親子や兄弟で「感謝している」などと言えるのは信じられないし、理解できない。昔の人なら、軽く口から出ることは「出まかせ」だと言っていました。今は言いませんが、それなのに、ああした言葉は普通なかなか言えるものではありません。
武士道といっても、「切腹」もそうですが、「切腹」が今で言えば何にあたるかは、わかりにくいものがあります。今は本当に腹を切るわけではないですから。
―― 社会の中に「切腹」という仕組みや社会的制度があるから意味を持っていた。
執行 「やり直せる」ということで。だから切腹は、別に最後的なものではないのです。
―― 生きるためにやる。
執行 そう、生きるために切腹するのです。山本常朝の『葉隠』にも、名を残すもので、恥にはならないと書いてあります。
―― 「名を残す」ということが大事ですね。
執行 それで恥にはならない。だから戦場で犬死にした場合も、突進して死んだのなら恥にはならない。これは武士として、子供たちがまたやり直せるということです。切腹と一緒です。犬死にと言っても、今のような自分の命を粗末にするような、くだらない犬死にとは違います。
今の自殺は、昔の武士道とはまったく関係なく、朽ち果てるというだけです。昔の武士道とは名を残す。恥にならないために。恥にならないのは子孫のためで、もう一回人生をやり直すためです。昔は家柄がすべてで、自分の子供は自分と同じ。だから子供がやり直せる形で自分が責任を取るのです。
―― 有名な武士道の言葉で、「命を惜しむな、名を惜しめ(命な惜しみそ、名を惜しめ)」と。
執行 そう、名を惜しむ。それが「やり直しがきく」ということです。
―― だから後ろ指を指されてしまったり、「あいつは臆病だ」と言われてしまったりしたら、もうその家自体が「臆病な家」になってしまう。
執行 臆病どころか、取り潰しです。江戸時代は刀を抜かずに死んだだけで、取り潰しでした。だから『鬼平』でも、刀を抜かないまま斬られて死んだ武士に対し、鬼平か誰かが、人情で刀を抜いた形にしてあげるといった話がよくあります。戦わないで殺されたら武士の場合、武士にあるまじき、ひ弱で馬鹿で卑怯な人間となるので。
―― 背中を見せただけでも。
執行 背中を斬られたら取り潰しだから、やり直すことができないわけです。このへんがわからないと、武士道が何かわかりません。
―― 単に死ねばいいとか、そういう話ではまったくない。
執行 昔の「死」の意味がどういうものであったか。これも昔と今では全然違います。今の人は本当に、昔の人の死ぬよりも、ずっと、人間として自分の失敗を認めることができません。
―― つらいのでしょうね。
執行 つらい。生まれたときから、自分が大したものみたいに育てられるから、そうなってしまっているのでしょう。もう、僕は自分が違うのでわからないですが、今の人は異様にすごい。昔の人が死ぬよりも、今の人が失敗を認めるほうがつらいのではないでしょうか。
―― 全人格の否定、全才能の否定。それに類することを突きつけられるという。
執行 だから、もしそれができたら、昔なら切腹と同じで、もう一回やり直せるのです。切腹とは復活のためにやるものだから。その意味がわからなければダメです。
―― それは非常に大事なメッセージですね。
執行 これが大事です。復活したものを現代流では「死んでしまった」と捉える。そうではない。ただ死んだのなら、山本常朝の言葉で言えば「匹夫の死」であって、何の...