●新型コロナウイルス問題をグローバリゼーションとの関係で考える
本日は、新型コロナウイルスについてお話しします。すでにテンミニッツTVの中でも、何回かこのウイルスについて、全体像からアプローチするという試みをしてきました。
リベラルアーツ&サイエンシーズとしてわれわれが第1に努力しているのは、文明論です。これは文化や芸術についてのアプローチです。第2に努力しているのは、科学技術について考えることです。第3に歴史や社会です。これは、ここで取り上げるグローバリゼーションや国家、社会などが関係します。さらに第4は価値や倫理の問題で、これらを哲学的に考えることも重要な課題です。これらを、今までの科学的知見を総動員して考えてみます。
今日お話しするのは、これらの中でもかなり限定した内容です。特にグローバリゼーションや政治、あるいは社会のシステムに焦点を絞ってお話しします。
新型コロナウイルス問題を文明論的に考えることは、すでに多くの論者によって実践されています。例えば、BC(Before Corona)やAC(After Corona)という言葉が頻繁に使われるほど、新型コロナウイルスが社会に与えた影響は大きいかもしれません。特に日本の歴史に考えると、明治維新や大東亜戦争、第二次世界大戦などが1つの区切りとなってきました。世界の中でも、今回の新型コロナ問題は大恐慌(1930年代の世界恐慌)以来であるといわれています。歴史的に考えれば、ペストやコレラ、スペイン風邪などもありますが、これらも人々の心や社会に影響を与えてきました。特に不条理や理不尽なことが、宗教や哲学、人の生き方に変化を与えたという面もあります。
その中で今日お話ししたいのは、グローバリゼーションとの関係です。われわれは、ヒト・金・モノに加えて、情報とウイルスが世界中で飛び回っていると捉えています。今回はその中で、ウイルスを止めたい。そのためにヒトの動きを止めるということですが、その意味でいうと、モノの動きはかなり滞っています。しかし、金、あるいは情報はまだ、グローバルな世界で動いています。
●今回の問題で主権国家へ回帰しているのではないか
こうしたときに、なぜわれわれは、古典的で主権国家的な対応をせざるを得ないのでしょうか。
今回の問題により、グローバル化に対して主権国家へ回帰しているようにも思えます。各国の対応は、国境管理や封鎖のような昔の城壁を閉じる都市国家を想起させる、非常に古典的な対応です。その意味では、EUでさえ国家単位での対処になってしまっています。そこで使われている手法も、隔離や接触禁止、移動制限、閉鎖などです。国によっては封鎖もあります。
ここで議論しなければならないのは、公衆衛生と政治との関係です。公衆衛生を優先すると、当然のことながら私権が制限されます。この私権の制限は、移動の自由や行動の自由の制限だけではなく、最近ではプライバシーの制限も含まれます。プライバシーをどの程度抑え、公衆衛生(ネット情報)を優先すべきかが議論されているのです。
●民主主義体制よりも独裁のほうが緊急事態に対応しやすいのか?
ただし、こうした緊急事態を契機として、独裁が現れています。ハンガリーのオルバン政権やポーランドに見られるように、緊急事態であるために議会を回避して一定期間、独裁を認めようかという動きがあります。こうしたところでは、過去にも委任独裁や主権独裁など、さまざまな種類の独裁が見られます。あるいは同じ権威主義体制でも、中国型やシンガポール型ではかなり差があり、民主主義体制の中でも取るべき政策にはかなりの差があります。
そうした意味では、新型コロナウイルスに対する各国の対応によって、いくつか面白い比較をすることができます。例えばヨーロッパでは、イタリア、フランス、ドイツではそれぞれ違った対応がなされました。また、ノルウェーとスウェーデンは、同じ北欧でも全く異なる対応を行いました。スウェーデンでは封鎖をせず、接触禁止もかなり緩いものでした。東アジアでも、各国の対応は異なっています。
その中で問われるべきなのは、独裁あるいは権威主義といった政治体制は、こうした危機においては対応しやすいのではないかという点です。つまり、一時的な民主主義の停止はあっても良いのではないか、あるいは中国のように、元来権威主義体制である国のほうが優れているのではないか、という議論です。
同じ民主主義の中でも、いくつかの特徴があります。例えば日本では、自粛のようなかなり緩いレベルの規制をしています。同じ民主主義国の中には、もっと強く対応に当たるべきだという議論もあります。そうした意味で、民主主義はこの危機を乗り越えることができるのか。あるいはいかにして乗り越えるのか。これが、文明...