●ナポレオン登場まで共和政を守ったヴェネツィア
―― 「独裁の世界史」、ローマに続いて今度はヴェネツィアのお話をうかがいたく思います。前のローマ編では、500年続いた共和政がだんだん変質していき、最終的には五賢帝の時代を経て、ついに元老がローマ皇帝の臣下的な立場になっていくということでした。
一方、ヴェネツィアの歴史は5世紀ぐらいから始まり、最後はナポレオンに征服されるわけですが、その間は共和政的なものを比較的維持できたという認識でよろしいでしょうか。
本村 前期においては純粋に共和政的なものと言っていいと思いますが、やはり後期になるとだんだん共和政も変質していったと捉えることができるでしょう。ただ、ローマのように帝国といった形にはなりませんでした。ヴェネツィアがどのようにして共和政国家をできるだけ守っていったかということは、やはり世界史の中で非常に大きな意味を持っていると思います。
―― そこは面白いですね。ナポレオンは1800年代まで活躍するので、ヴェネツィアは5世紀以降1400年近く、形を変えつつもずっとその体制を続けていったことになります。ローマの場合は、どんどん市民権が拡大して、ローマの域内だったものもどんどんと拡大した。おそらくそれによって、元老院のあり方などもいろいろ変わっていったところがあると思います。そのあたり、ヴェネツィアは、長い歴史としてどういう形を取っていったのでしょうか。
本村 ヴェネツィアは基本的に最小面積で最小人口という国家であったにもかかわらず、最強の通商交易国家でもありました。つまり、自分たちが実際に住む場所としては、ヴェネツィアという極端に狭い地域に閉じ込められていながら、実際に活動する場は地中海全域に及んでいるという形でした。
●ゲルマン諸族の侵入を避け人工島に国家を創設
本村 彼らは5世紀の、ちょうどローマ帝国が衰退した時期にゴート族やブルグント族といったゲルマン諸族の侵入を受け、その侵入による難を避けるためにラグーナ(潟)に移住します。
―― 干潟ですね。
本村 そうです。潟に人々が移住した。しかし、そこに移住してきた最初の頃は、あくまでもゲルマン人がやってきたから避難したという形でした。ラグーナというのは、その中がきちんと整備されないと簡単に住めるものではないのですが、何百年とかけてインフラストラクチャーを整備していったようです。
そのようにしてリアルト島という小さな人工島をつくりあげ、長さ約3キロ、幅約1キロから2キロぐらいの小さなところに国家をつくります。さらに、対岸にある内陸部をある程度領土化していく。そうすると、そこを足場にして内陸の開発も起こるし、港を造ったりもできる。そのため、内陸部の領土化も少しは行ったのです。
ただ、彼らは基本的にはやはり海外に船で出かけていって、そこで安く買ったものを高く売るという形で、自分の富をつくっていきます。そのためにとりわけ求められたのが、巧みな外交術でした。
●外交術を駆使して地中海を拠点に三角貿易を開始
本村 当時ヴェネツィアが主に交流する相手は、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)でした。ローマ帝国の西側はだんだん衰退していきましたが、東側はそれなりの繁栄を誇っていた時期です。それが今のイスタンブールです。
ビザンツ帝国は、ユスティアヌスの時代の頃からそれなりの覇権を持っていますが、商業交易活動に関してはそれほど熱心ではなかったのです。そのため、ヴェネツィア人やジェノヴァ人のような地中海の都市を拠点に活動する人たちが入り込んでいく余地があったのではないでしょうか。
帝国にとって商業交易活動は、物を集める上では必要であり重要であるにもかかわらず、商業としては他のところ、すなわちヴェネツィアに依存する形を取ったわけです。それが対抗する形でいれば争いのような感じになってしまいますが、そうではなく、ビザンツ帝国の政治的な覇権の下にありながら、商業交易活動は自分たちが中心になって担うというスタンスが取れたわけです。
それが一つと、それから造船技術が非常に進んだことがありました。
―― ヴェネツィアは、今でもそうですけれども、非常に工房都市というか工業都市というか、そういうイメージがありますね。
本村 彼らは船で交易するわけですから、より優れた船を持っていなければいけない。それで、造船技術をいち早く開発することに多くのエネルギーを投入しました。
それから、三角貿易の発展があります。AとBの地域を結びつけるのに、AのものをBに持ってきて、BのものをAに持っていくという単純な手法ではなく、三角形にする。AのものをB、BのものをCに持って行き、必要なところに必要なものを渡すことにポイントを...