●民意の中で一番優れた見識の人が選ばれるシステムが出来上がった
―― ヴェネツィアの場合は通商国家であるため、シリーズ冒頭でお話があったように外交が優れていなければ国家運営自体ができないですし、同時に非常に強力な海軍国家でもありましたよね。
本村 そうですね。
―― となると、当然軍事力をどう使うかという選択もあったはずで、実はかなり力で「率いる」という意味でのドージェもいたのではないか。つまり、政治家としては機敏な選択が大切で、機を逃したらそれこそ滅亡し兼ねないような場面での臨機応変さが求められると思います。そのあたりは、共和政の中でどのように保ち続けたのでしょうか。
本村 それは、やはり優れた人がそれを行ったということです。選挙で選ぶことにまつわる多数派工作や誰かの意図的なことを排除し、民意の中で一番優れた見識の人が選ばれるシステムが、くじと選挙を繰り返すことによって出来上がったということですから。
ヴェネツィアには傑出した人物が輩出しました。例えば、私がかつて「世界史の遺風」(産経新聞連載)で取り上げたヤコポ・ティエポロは、その点で典型的ではないかと思います。彼は軍人として非常に輝かしい経歴を持つ人で、市民総会で元首にと期待されながら、ヴェネツィアを離れていきました。
その理由は、祖父も父親もドージェで、だから自分がやると3代続いてしまうということです。自分が選んでくれと言ったわけではなく、民衆のほうからやってくれとなったわけだけれども、それをあくまでも拒否する。そういうことで、彼はドージェにはならなかった人物ですが、それくらいの人材が結局は選ばれるということではないかと思います。
―― それは、世襲になってしまうことを恐れるということですか。
本村 そうですね。2代ぐらいまでならいいけれども、3代、4代になると、それはもう君主政になっていくのに近い。それを身をもって示したということが、やはりあったのではないかと思うのです。
●野心的な個人を排除して続いたヴェネツィアの繁栄
―― くじ引き制を基本とする制度をつくって以降、ヴェネツィアは通商国家なので、環境の変化もかなり激しく到来します。一般によく言われるのは、喜望峰まわりの航海ですね、ヴァスコ・ダ・ガマなどが地中海権益だけではなく、アフリカを回っていくような航路を開発したりする。まさに「大航海時代」となり、いろいろな航路が開発されることで、ヴェネツィアがやや右肩下がりになっていくというような話がありました。そういうときというのは、政治が荒れたりしそうなものですが、それでもなお保てたのは、どのようにそこを守っていったかというところをお聞きしたいのですが、いかがでしょう。
本村 やはり文化的なもので補っていたところがあるのではないかという気がします。ルネッサンスの時期になってくると、いろいろな出版物や演劇などが発達しました。通商力においては衰えていったけれども、ヴェネツィアはかなりルネッサンス以後の出版物をたくさん出したりして、経済力の衰えを文化的なものでカバーしていた節があります。
本来ならばもっと早く滅亡してもおかしくなかったのにもかかわらず、個人的に野心のある人間をなるだけトップに持っていかないという彼らの工夫が、国家のシステムとしてよく機能したわけですね。
ですから、後期のヴェネツィアは非常に難しいものを抱えていました。前期は上り調子で良かったけれども、後期になってくると通商関係などでもライバルが増えたり、いろいろなことがあります。それに、オスマン帝国が出てきたりもします。
そういうものはありつつ、常にトップに就くリーダーたちがそれなりに優れていたということです。くじと選挙を繰り返すことによって、なるだけ個人的な野心の強い人間を上に持ってこないというシステムがうまく機能した一つの例ではないかと思います。
ローマの共和政がダメになって帝政になっていったのは、つまり共和政自体が規模が大きくなるとそうなる可能性があるということを、本質的にはらんでいるだと。
―― 非常に難しくなってしまいますね。
本村 それがヴェネツィアの場合は、ローマほど規模が大きくならなかったからそれができたのかも知れない。あるいは、くじと選挙のシステムを繰り返すことで、なるだけ個人的な野心の強い人間を排除するという試みによってかもしれない。そうなると、同じ家族が何代も続くなどということが起こらなくなってきます。せいぜい続いても2代で、父親が非常に優れていて息子も実際優れているという場合もあるでしょう。それが3代、4代続けばどうなるかということで、先ほどのヤコポ・ティエポロは、むしろ自分から退くような見識を示したということだと思います。