●世界史に例を見ない橋本龍太郎の偉業
橋本龍太郎先生はクリントンさんに会いたい。基地の問題について議論したい。クリントンさんは、「今はだめだ。カリフォルニアのパームビーチというところにいるので、ワシントンへ行って橋本龍太郎首相の訪問を受け付ける時間的な調整がつかない」と言ったのですが、橋本さんは「かまわない」と言って、なんとパームビーチ、これはリゾート地ですけれど、そこに半分私的なことも含めていたクリントン大統領に直接飛び込んで、面会するのです。
単刀直入に、「こういう問題があって、大問題で、おそらくこのまま放置するとアメリカの世界戦略は狂いますよ」ぐらいのことを言ったのだろうと思いますが、談判した。そうしたら、基地の移転をクリントンさんは認めたのです。
そこへ出かける前に、実は当時、沖縄は大田知事という、言ってみれば左翼系の知事の方がおられて、この人に橋本さんが、「沖縄県民が今一番望んでいることはなんですか」「普天間の基地の移転ですよね」ということを、何度も何度も電話で念押しして出かけたというように言われています。「言われています」というのは、船橋洋一さんが大変詳しい取材でそれを書いているからですが、まさにこれを動かせば沖縄県民の喉に刺さった骨が取れるだろうということだったのでしょう。そこで、クリントンさんは応じた。これはものすごく珍しいことです。
軍事基地というのは戦争の結果で決まるものです。太平洋戦争で日本が叩きのめされて、アメリカ軍が日本を占領し、そしてアメリカの世界戦略で東半球をしっかり固めるために、その中心としてできた基地なので、それを戦争ではなくて動かすということは、世界史でもあまり例のないことなのです。
ですから、橋本先生というのは大変なことをしたのです。実は、佐藤首相という、橋本先生の先生ですけれども、この方がノーベル平和賞をもらっています。それはどうしてかと言うと、太平洋戦争の結果、アメリカが戦利品として獲得した沖縄という世界戦略基地を日本に返還させることにしたからです。ですから、世界史的にも珍しいということでノーベル平和賞を取っておられるのですが、それほど大きくないけれども、似たようなことを橋本総理はなさったわけです。
●キャンプ・シュワブへの移転提案と沖縄県知事の反対
それで、日米両国政府の合意ですから動かすということになりましたが、これには手続きがいろいろあります。私は実はその当時、「沖縄における米軍の基地施設所在市町村の振興に関する官房長官の私的懇談会」の委員長でしたが、あまり名前が長すぎて国会議員がいちいちそれを言えないものですから、「島田さんが委員長なのだから、島田懇と言おうよ」ということで、国会の正式の記録の中にも島田懇という言葉が出てきます。ある方から「明治以来、個人の名前を冠して千億円という予算のついている委員会というのは、多分現代史にない」と聞いたことがありますが、そうかもしれません。沖縄ではさらにこれが簡単になって、島田懇と言わずに島懇と言われています。島唄と同じような扱いになっているようです。それが島田委員長だから島懇と言われていると知っている人はあまりいないと思います。ただ、沖縄では、1997年から10年ぐらい、「鳥の鳴く声を聞かなくても島懇の名前を聞かない日はなかった」と言われるほど、島懇には多くの話題が集中したし、いろいろな問題提起をしてきたのです。
ということもあってやっていたものですから、今の状況を詳しく拝見させていただきましたが、動かない。次に移転するところはどこかと、数十ヶ所を探しまくったのですが、一番無難な、要するに住民に被害が一番少ないところというのは、やはり海辺です。宜野湾市よりも北に数十キロさかのぼった東海岸になりますけれど、そこにキャンプ・シュワブという米軍基地があるのですが、そのシュワブの浜辺のところに滑走路を作って、島のど真ん中にある普天間基地を移す。そこはややさびれた漁村、寒村で、しかも半分はシュワブ基地の中にあるので、一番被害が少ないのではないかということで、決着しようということになっていました。ところが、そこに基地を作るとなると、海辺を少し埋めたり、滑走路を作ったり、いろいろ工事があったりする。そうすると自然に影響がある。アセスメントをしなければいけない。地権者の問題も処理しなければいけないなど、いろいろあって、地権者問題、自然環境問題、そんなものを超えていかなければいけない。しかも、県知事がまず「アセスメントをしていい」「調査をしていい」という許可を出さないとステップが前に進まないということもあって、橋本さんがクリントン大統領と相談をして、日米当局、これは外交当局、防衛当局両方で、2プラス2と言いますが、防衛大臣...