●戦後の米国統治下で産業が育たず
後世の沖縄に格別のご配慮があったかと言うと、日本はサンフランシスコ条約で独立をするのですが、沖縄はなんと米軍統治下に残されたままでした。
沖縄には大した産業がありません。今はどんな産業があるかと言うと、あるのはサトウキビとオリオンビール、そのほか観光はなかなかよろしいのですけれども、あとは補助金です。
なぜそういうことになったかと言うと、やっぱり米軍統治下だからなのです。米軍統治下で米軍基地がたくさんあって米軍の方々がいらっしゃるので、米軍もアメリカから食料を輸入していますが、沖縄も輸入したのです。それはPXというところへ来るのですけれど、沖縄でもアメリカのものを輸入したので、肉や牛乳がどんどん入ってきました。そのためには、為替レートがあまり安くては困るのです。だから、沖縄の円は本土の円より何倍も高い価値がついていました。ですから、輸入をするにはいいのだけれど、輸出をするには全然だめなのです。
本土では「1ダラーブラウス」と言って、アメリカがブラウス一つ10ドルか20ドルするのに、日本は1ドル以下で作って売っていたから、それはものすごく売れます。糸へんブームになります。沖縄はそういう産業が起きなかった。ずっと米軍支配下にあったのです。
米軍というのは軍隊ですから、そこに存在して、もちろんみんなしっかり行動はしているのですが、米軍の車両にはつい最近まで車両の番号がついていませんでした。ですから、事故を起こして、さっといなくなってしまうと、沖縄の警察はどこの番号だか調べようがないのです。
そういうことが続いているものですから、毎日のようにレイプがあったりするので、沖縄県民は非常に不安なのです。明日が見えない、本当に鬱屈したストレスの中で生きていたと思います。
●沖縄返還で産業育成の機運が高まる
そういう生活が続いた中で、1971年に沖縄返還ということになります。そのために佐藤総理大臣がノーベル平和賞をもらうわけですが、これを実際手足となって実現した人は、田中角栄さんです。
この当時、宮澤喜一という、後に総理大臣なられた方が外務大臣をやっておられたのですけれども、この人は非常なストレスがかかるとものすごくお酒を飲むのです。それで、もうセルフコントロールを失ってしまって、「沖縄をアメリカが返してもいい。ただ、そのためには、関西地方から大量の繊維製品がアメリカに輸出されるのを止めてくれ」と、つまり糸と縄を交換すると言われたのですが、この繊維製品を止めるというのは関西の人たちの生活に関わることですから、宮澤さんはもうパニックになって動けなくなったのです。
そのときに田中角栄さんが通産大臣で、「よっしゃ、私が行ってやる」と言って、大阪の繊維工場に行って、工場の紡績機に赤いテープを貼ったそうです。赤いテープを1枚貼ると左の手でお金を渡していたということで、大阪の輸出がストップして、アメリカのニクソン大統領が返還に応じたと言われています。本当のことはよく分かりませんが、そう言われています。
それで、沖縄は還ってきた。先ほど申し上げたように沖縄は特別な通貨ですから競争力がなく、産業が育っていないので育てなくてはいけないのですが、賃金も安いから、ここは産業立地になるぞということで、鉄鋼会社や造船会社がみんな青写真を描いて、1972、3年にどっと進出をと考えていたのです。
●オイルショックで産業育成計画が中止、本土への期待は不満へ
ところが、天は日本に味方しなかった。沖縄に味方しなかった。オイルショックがきた。オイルショックはリーマンショックの比ではありませんから、全部すっ飛びました。全部計画をやめる。
そうなると、沖縄の人たちは、日本に期待していたことをどうするのだということです。明治維新で沖縄が日本の県として組み込まれたときに、あの大学者・伊波普猷さんがあのような目に合うほど、沖縄の人たちは日本に期待をしたわけです。
日本に返還されるときも、「日本に帰属したい」という沖縄の人と、「いや、独立の道を選ぶのだ」「アメリカの方がいいのだ」と、いろんな意見があったけれども、あえて日本に期待をして日本に復帰したわけです。
復帰していいことがあるかと思ったら、そういうことになったので、これは経済危機だから仕方ないと言えば仕方ないのですけれども、目がないわけです。
そこで日本政府もこれではいけないというので、長期振興計画というものを作って、10年間で何兆円というお金を提供する。これはほかの県にはありえないことですが、安全保障がかかっているから、特別にやりました。
ですが、10年経っても沖縄は経済がまったく育たないのです。また次の長期計画。また10年。また10年。これを30年...