●エリートの地位を捨て山にこもった最澄
―― では、「日本仏教の名僧・名著」の二人目、最澄は、どういう方になりますでしょうか。
賴住 最澄は、一般的には比叡山延暦寺を開いた天台宗の開祖として、よく知られていると思われます。もともとは「官僧」という、正式な「二百五十戒」の戒律を受けた僧侶でした。当時、正式にこの戒を受けて一人前の僧侶になるのは大変困難で、年に何人という枠が決まっていました。その一人に選ばれるのは、大変なエリートの僧侶だということです。
しかし、最澄はエリートの僧侶としての地位を捨て、比叡山にこもって自分で修行をします。後でお話しする「願文」も、その時につくられたものです。彼は比叡山にこもって12年間修行した後で、いわゆる俗世間に戻ってきて、そこで日本天台宗を確立するという大きなお仕事をされた方ということになるかと思います。
―― この比叡山延暦寺ですけども、この後出てくるいろいろな僧侶の方々がかなり多く、最初あるいは途中で修行されたり、関わられたりしています。日本における比叡山延暦寺の位置づけは、どう捉えればいいでしょうか。
賴住 はい。今言われたように、例えば法然や親鸞も比叡山で「天台浄土教」という天台宗の中で発達した浄土教を勉強していますし、道元も最初は比叡山で勉強して、山を下りてから禅宗のほうに入っていくわけです。日蓮にしても、最初は比叡山で勉強している時期がありました。
そのようなことから、やはり比叡山延暦寺の持つ、学問や修行をする場としての意味は、非常に大きなものがあったと考えられます。人によっては、当時の「総合大学のトップ」と見なされると言う方もおられ、多くの僧侶が比叡山で学びました。
●「二百五十戒」の伝統を捨て「大乗戒」を確立
―― 比叡山を開かれた最澄の考え方なり哲学が後に生きていく部分が非常に大きかったのだろうと思われます。特に仏教思想史的に見た場合、最澄の考えで後世に大きな影響を及ぼしたのは、どういう点でございましょうか。
賴住 はい。やはり「大乗戒」を確立したところが、一番大きいのではないかと思います。
まず、戒律ですが、これはインド仏教からずっと伝わっているもので、概略をいうと「二百五十戒」という戒があり、「小乗戒」とも呼ばれています。僧侶であれば、必ず入門のときに250の戒を誓って、一人前の僧になるという儀式を行います。例えば「異性と二人で同じ部屋にいてはいけない」というような、本当に日常的な修行生活を律するものです。
―― 生活上の規則のようなものですね。
賴住 そうです、生活の規則です。250もあるそれらを一つ一つ誓っていくことが、僧侶になる入門の際に必要なのです。しかも誓いを立てるときには、10人の資格を持った正式の僧の前で行うという決まりになっていました。
それが釈迦の決めた決まりだと信じられていましたし、インド、中国、日本という仏教の流れの中でも、「小乗戒を受けて正式な僧侶となる」ということは、ずっとデフォルトないし基本だったわけです。
大乗仏教になると、大乗仏教だからということで、「大乗戒」というものもできていきます。小乗戒をきちんと受けた人が、さらに大乗戒を受ける。「大小兼受」といって、両方とも受けるのが基本だったのですが、最澄は「単受大乗戒」といって、大乗戒だけを受けるという新しい戒の考え方を築き上げていったのです。
細かな規則を設けないということは、それを誓わないということになります。また、先ほど10人の正式な資格を持った僧侶の前で誓いを立てるのが基本だと申し上げましたが、最澄の場合は、もしその10人が得られなければ、仏さまの前で心の中で誓いを立てればいいというような方向を出していきました。
●最澄は非常に厳しい修行者で、弟子たちにもそれを要求していた
賴住 最澄自身は非常に自分を律する力が強く、12年間山にこもって一度も下りずに修行に専念するという方でしたし、自分の弟子にも「そうしなさい」と言います。ですから、最澄が生きている間はよかったのだと思いますが、小乗戒という250の戒律を受けていないことから、だんだん戒律に対する気持ちの緩みが出てきたのではないかと思われます。
先ほど、鎌倉仏教を展開していった祖師や仏教者たちの多くが比叡山で勉強したと申し上げました。比叡山で勉強した方々は、基本的には大乗戒だけを受けていることになります。(総論の第3話で「戒律を重視しないことが日本仏教の大きな特色」と述べましたが)そのあたりから、大乗戒というものがかなり日本に広がっていった結果、いろいろな戒律の緩みが出ていったというようなことも言われています。
もちろん最澄が意図したことではなくて、最澄自身...