●火がついてきたときには、会社はもう「終わり」
―― 三枝匡先生の『V字回復の経営――2年で会社を変えられますか(増補改訂版)』(日本経済新聞出版)は、完璧な名著ですよね、一冊で。ターンアラウンド(事業再生)で、勝てる勝負の場所に持っていってしまう。これは、すごいことです。
三枝 それはやはり、それまでの経験があって、(企業の)病気を見たり、経験したりしているからです。だから、よく言うのですが、窓が「パッ」と少しだけ開いたときに、向こうに見える景色の中に、あってはいけないものがある。あってはいけないものがあって変なのか、本当はあるべきものがないのか、なくていいものがあるのか。そういう異常を、会社の中で歩いていてパッと通り過ぎたときに、ハッと気づけるかどうかが、経営者の腕なのです。
(経営者は)自分で直接なんかできません。しかし、「ちょっと小耳に挟んだ」とか「誰かと冗談で話していたら、何か変なこと言ったな」とかいうことがある。それがつまり、「(ドアが)パッと開く」ということです。それで、「あるべきものがそこにない」あるいは「あってはいけないものがそこにある」というようなことに気づいたら、もうドアはすぐに通り過ぎて閉まってしまいますから、すぐに入っていって、近づいていって、「どうなっちゃっているの」と聞くわけです。
そういうときは、もう自分のほうから、上の人間が自ら、ずかずかずかと入っていく。どんなところであろうが、もう社長ですから偉いのですから、どこでも入れますから。行って、「これ、何?」などと聞くわけです。
それで、実は、自分が「何かおかしいな」と検知したつもりが別に異常はないと思えば、さっさと引き上げる。「あ、やっぱり変だと」思えば、「これは何だ?」ということになる。それが重要な問題だったら自分が直接入っていく。そのような行動になっていくわけです。
だから、そういうものに気づいて、まだ会社が元気なうちに、つまり、会社としての選択肢がいろいろありうるときに、そういうことができる経営者がやっていたら、早め早めにそういう問題が直され、フィックスされていって、会社っていうのは元気でいつづけられるわけです。しかし、ダメになる会社は、それに気づく経営者がいない。気づいたとしても動く人がいない。放っておく。そういうことをやっていると、だんだん、だんだん、会社は追い込まれていく。
やっぱり大企業が本当にダメになっていくのは、10年単位なのです。
―― なるほど。やはりそれくらいの余裕があるんですね。
三枝 あるんです。余裕があるので、10年、20年経たないと、本当の最後のところまで行かない。つまり、本当にもうダメかもしれないという倒産寸前のような状態のところに行くには、そのぐらいの年数はかかるんですよ。
それは2つ理由があります。1つは、「ない」とは言いながら、(大企業は)ある程度の財産を持っているものだから、多少の赤字でも、また頑張ったら次の年に少し黒字になったりする。これを私は、「小市民的黒字に満足する」と言うのですが。
もう1つは、そういうところ(大企業の地位)まで一度は上がった会社というのは、関係者が支えるのです。「流通」や「供給業者」など、「自分の商売相手の会社がつぶれたら、自分もつぶれる」という人たちが、けっこうたくさんいて、その人たちが無理難題を言われてもそれを聞いてしまって、一生懸命支える。それで、時間がもつのです。だから、10年単位でもつ。しかし、その時期を過ぎてしまったら、もうアウトです。
その時期は、社員はのんびりしているのです。(会社の状況が)ダメだと言われても、「会社全体はダメだけれども、俺はちゃんとやっている」などと言っているわけです。ところが、最後の最後まで追い込まれてくると、今度は社員全員が相当、火がついてくる。しかし、火がついてきたときには、実は、会社はもう「終わり」なのです。
―― なるほど。これはなかなか厳しいですね。
三枝 山一證券などもそうですが、社長が涙を流して謝罪をするような状況に至るまでの2、3年前から、社員がどれだけ必死になって駆けずり回って、会社をなんとかしようとしていたかということです。しかし、この会社を救うポイントはもう20年前だという話なのです。
これを私は「自然死的衰退への緩慢なプロセス」と呼んでいます。この20年、30年の間に、「これは本当にまずい」と思う経営者が出てくれば、色々な手も打ちますので、実際には自然死的な衰退にはならないで、また業績が戻ったりすることもある。しかし、落ちてしまう企業は、実は社員の側も、経営者と社員のどちらが悪いのかわからなくなってしまうくらい、たるんでいるのです。私はこれを、言葉は悪いのですが、「同じ穴のムジナ」と言って...