●「遣唐使」として同じ船団で中国に渡った最澄と空海
―― 続いての「日本仏教の名僧・名著」では、空海を取り上げます。空海も名前を聞く機会が非常に多い高僧かと思いますが、どんな方だったのでしょうか。
賴住 空海は最澄と同時代人で、しかも非常に深い交流がございました。もともと彼らはどちらも遣唐使の一員として、同じ船団で唐に渡っています。
―― 遣唐使ですね。
賴住 最澄のほうは非常に恵まれた立場で、天皇からバックアップを受け、自分専用の通訳もつけて、短期間行っています。空海のほうは当時は一介の無名の僧侶だったため、最澄とはかなり違う立場で留学しています。留学中は関係はなかったようですが、帰ってきてから二人の関係ができていきました。
二人は乗った船も違っていたようです。空海は、中国でその当時の「真言密教の最高峰」と呼ばれていた青龍寺の恵果阿闍梨に学び、免許皆伝のようなものを受けました。
一種のイニシエーションとして最高のもので、「灌頂(かんじょう)」とよばれています。空海はその灌頂を受けて、日本に戻りました。
最澄のほうは天台宗を勉強しに中国に行きましたが、実際に行ってみると中国では真言密教のほうが盛んでした。そのため、自分が日本に仏教を広めていくためには、天台宗のみならず、真言密教も勉強しなければいけないことを、最澄は非常に強く感じます。ただ、中国での留学期間が短い期間しかなかったので、自分としてはまだまだ勉強したいという思いを持ったまま、日本に帰ってきてしまったのです。
その後から、空海が最高の灌頂を受けて日本に戻ってきました。そこで、最澄のほうが空海に密教を教えてほしいと頼みます。自分はある程度は勉強したのだが、まだ心ゆくまで勉強ができていないので、教えてほしいと頼み、いろいろなお経を借りたり、文通をしたりしました。
●そもそも「密教」とは何で、なぜ優れているのか
賴住 当時やりとりした手紙が残っていて面白いのですが、二人の交流は続きます。しかし結局、密教の位置づけについて二人はまったく違う立場です。
―― なるほど。先生、密教という言葉はよく聞きますが、何をもって密教ということになるのでしょうか。
賴住 普通、仏教では釈迦牟尼仏を中心にしていますが、密教の場合、釈迦牟尼仏もありながら中心にしている仏は大日如来です。しかも、釈迦には言葉で説いた教えの他に言葉で説かれていない秘密の教えがあると言われていました。その教えが最も重要であるというのが、密教の考え方です。一般的な仏教として、天台宗などいろいろな宗派がありますが、それらを超えた最高の教えであると自分たちを位置づけていたわけです。
―― なるほど。天台宗の場合では法華経が非常に重要だったというお話をいただきましたが、法華経の場合はお釈迦さまが書いたという位置づけでしたでしょうか。
賴住 お釈迦さまが説いた教えを覚えていて、暗唱して、ある時期に書き留めたということになっています。
―― それを超えて、書かれていないものがあるというのが密教の立場なわけですね。
賴住 そうです。お経としては大日経や金剛頂経などの経典がありますが、一番大切なのは、(むしろ書かれていない、)言葉を超えた秘密の教えだという形になっています。
先ほどの話に戻ると、空海と最澄は最終的には絶交してしまうのですけれども…。
―― 密教に対する捉え方が違うというお話でしたね。
賴住 はい、捉え方が違いました。要するに最澄のほうはあくまでも天台宗が中心で、天台宗を盛んにするために付属的といいますか、補助的に密教を取り入れましょう、ということだったのです。
●密教を頂点とするかどうかで分裂した二人の高僧の関係
賴住 結局この後、天台宗では最澄の弟子たちが密教をどんどん取り入れていって、いわゆる天台密教、「台密(たいみつ)」と呼ばれるものが盛んになります。それでもやはり中心は天台宗で、それを盛んにするために密教を使っていくような位置づけでした。
しかし空海の捉え方は違います。密教の反対を「顕教」といって、釈迦が言葉で説いた教えを指します。天台宗も、言葉で説いた教えの一つにすぎない。だから顕教を否定はしないけれども、それを超えたところに密教があると考えています。何を最高と見て、最高の教えにするかというところで、二人はまったく違うことを考えていたので、やはり最終的には絶交することになってしまったのです。
―― なるほど。
賴住 直接的なきっかけとして、最澄は自分自身、空海のところで密教を勉強したかったのですが、なかなか忙しくてそれができなかった。そのため、自分の非常にかわいがっていた弟子を空海のところに送り込んで、真言密教を勉強させました。ところが、その弟子が空...