●編集力に富んだ源信の「地獄」の描写
―― それでは『往生要集』を見てまいりましょう。最初は地獄のさまを描いた部分だと思うのですが、なかなか描写的で、子どもが聞くと泣いてしまう地獄絵図のようなところがございます。では、読ませていただきます。
「悪鳥あり、身の大きさ象の如し。名づけて閻婆(えんば)と曰ふ。嘴(くちばし)利(と)くして炎を出す。罪人を執りて、遥かに空中に上り、東西に遊行し、しかる後にこれを放つに、石の地に堕つるが如く、砕けて百分となる。砕け已(おわ)ればまた合し、合し已(おわ)ればまた執る。また利(と)き刃、道に満ちて、その足脚(そっきゃく)を割く。或は炎の歯ある狗(いぬ)あり、来りてその身を齧(つ)む。長久の時に於て大いなる苦悩を受く。昔、人の用ゐる〔河〕を決断して、人をして渇死せしめたる者、ここに堕つ。」
賴住 はい。これはもう本当に恐ろしい地獄の有り様を表していまして、こういう叙述が延々と続きます。これはほんの一部で、他にも、こういう悪いことをした人は、こういう恐ろしい場所に行くのだということが書かれています。これが後世にかなり大きな影響を与えています。
―― これ以前には、ここまで生々しく書いた本はあまりなかったということですか。
賴住 この『往生要集』の地獄の描写は、それまでにもいろいろなお経に書かれていたのですが、それを源信が集めてきたのです。その集め方が非常にうまく、非常に印象的なところをたくさん集めているので、それまでになかったわけではないのですが、それを1箇所に集めたところが、源信の「編集能力」といいましょうか。
―― まさに編集能力ですね。
頼住 そう思います。
●「六道輪廻」思想と「地獄」の強調
賴住 「六道(りくどう)」といいますが、仏教では、生きとし生けるものは「六道(りくどう)輪廻」をして、いろいろな世界を経巡り続けるといわれています。この六道の全てについて、源信は『往生要集』の中で書いています。
六道の中で一番いい世界は「天」です。これが神々の世界で、次が「人間(じんかん)」と読むのですが、人間の世界」になります。
賴住 その次が「修羅」といって、戦いの神様である阿修羅の世界です。その次が「畜生」で、動物の世界です。次が「餓鬼」といって妖怪なのですが、生きているときに物惜みをした、要するにケチの人が落ちるのが餓鬼の世界です。喉が細くて、食べ物が食べられない。だけどお腹がすごく空いていて、目の前においしいものがある。そういう状況の世界なのですが、それより下の一番最低の世界が「地獄」になります。
源信は六道のそれぞれについて、いろいろまとめているのですが、地獄があまりにも生々しく、その描写があまりに鮮やかなために有名になりました。しかし、本来は六つあるということです。
―― なるほど。
賴住 六つの世界は全部迷い苦しみの世界ですから、この世界を解脱することが人間にとっては一番望ましいことです。しかし、前回も言ったように、末法思想の世界では、もう自分の力で修行して解脱することはできない。「浄土に往生して、そこで修行して悟りましょう」ということになるのですが、こういう地獄の恐ろしさを強調すればするほど、ここから逃れるには浄土に往生するしかないということがよく分かるようになるわけです。
―― なるほど。そういう論理構成になっているということですね。
●阿弥陀仏や極楽のイメージを浮かべる「観想念仏」
―― 先ほどの文章が地獄の描写のところでしたが、次は往生の話になってくるのでしょうか。
賴住 はい、そうです。
―― 読んでみましょう。
「もし極略(ごくりゃく)を楽(ねが)はば、応(まさ)に念ずべし。かの仏の眉間の白毫相(びゃくごうそう)は、旋(めぐ)り転ずること、猶(なお)し頗梨珠(はりす)の如し。光明は遍く照して我等を摂(おさ)めたまふ。願はくは、衆生と共にかの国に生れんと。」
賴住 はい。最初の「もし極略を楽はば」というところですが、これには「観想念仏」というものが関わってきます。
―― 「かんそう」というのは、どういう字ですか?
賴住 観察の「観」に、空想の「想」という字です。
―― なるほど、なるほど。
賴住 観想念仏は修行の一種です。阿弥陀仏の非常に素晴らしい姿や、極楽の非常に美しく立派な有り様、例えば、極楽の池が水晶のように澄んでいる有り様を心の中に思い浮かべて心に刻みつける。そういう修行があるのです。
最初は非常に簡単な「日想観」で、西に沈んでいく太陽をじっと見つめます。そうすると、だんだんと実際の太陽を見なくても、心の中に太陽をいつでも思い浮かべられるようになる。そこからだんだんと複雑なものを思い浮かべられるように訓練をしていっ...