●日本人と古代ローマ人に共通する「ソフィスティケイトしていく力」
―― 先生が研究されている「江戸とローマの比較」について、今回は水道やインフラの部分のお話をうかがえればと思います。どちらの都市も、市民階層にまで非常にきれいな水を提供した点で、相当優れた社会でしたね。
本村 そうですね。ローマのほうから考えていけば、ギリシアやカルタゴ、エトルリアなどで小規模な前例がありました。それをローマが大々的に普及させたわけです。
これは日本人と古代ローマ人の比較をする場合に面白いことです。日本人はよく「オリジナリティがない」「人の真似をして、ちょっと改良しているだけ」と言われますが、ローマ人も意外とそうです。あまりオリジナリティはない。けれども、ギリシア人やエトルリア人、あるいはカルタゴ人のような周辺民族がやっていることを取り入れるわけです。
最初は取り入れるのだけれども、よりよいものにしていく工夫を惜しまない。その能力が、ローマ人と日本人は世界史の中でも卓越しているところがあるのではないかと思う。つまり、物事をソフィスティケイトしていく能力が非常に優れているということです。
より良いものにしていく能力というのは、長く社会を続けていくには重要なことです。オリジナリティだけが重要というわけではない。そのあたり、非常に似ていると考えています。
水道橋を作り、水道を引っ張ることについても同様で、「きれいな水が大事だ」ということは、ギリシア人も考えました。カルタゴの遺跡に行けば今も水道橋の跡が残っています。だから、そのこと自体を彼らが発想したわけではない。ただ、ローマ人はそれを大規模に、しかも長期間にわたって確保するシステムとしてつくりあげ、磨き上げていきました。そのことにおいてローマは卓越していたわけです。
●まっすぐに造られたアッピア街道に見るローマ的発想
本村 有名なアッピア街道を造ったアッピウス・クラウディウスという人がいます。水道の話に戻しますと、最初に手がけたのがアッピウス・クラウディウスだったため、「アッピア水道」という形で残っています。最初に水道橋が考えられたのは、イタリアの都市部では雨が降らないためです。彼らがどこから水を確保していたかというと、それなりに雨の降る山間部でした。
泉が湧いているような山間部から、きれいな水を引っ張ってくるという事業を、ローマ人はなんと紀元前4世紀末に始めていました。しかも、微妙な傾斜をつけることでローマの町まで引っ張り込んでくるわけですから、それはもう大変な工夫をしているわけです。
ローマ人はよく「ローマ法と土木建築技術について自分たちは優れている」と誇りました。ギリシア人やエトルリア人から学んだことを基本にして、それを大々的に改良していったのが現在に残るローマ法であり、土木建築技術です。
ローマ時代に起きた土木建築技術上の大きな技術革新として「アーチ」があります。これらを用いて「水道橋」という形を完成し、日本などよりはるかに大規模な形で実用に供しました。ローマの少し郊外に行くと、今でも遺跡そのものが残っています。
このような形で水道が引かれた源には、道路と同じ発想があります。つまり、敵が来たときに、そこに毒を盛られると怖いという考え方もあるわけです。しかし、ローマ人の発想というのは、道路にしても水道にしても、そのようなマイナス思考でリスクを想定してもしようがない、というものだったのでしょう。
ローマ人が日常的に使えることを前提に造っていった結果、実際にそういう大事に至ったことはありません。
●今も古代のヴィルゴ水道から流れ込む「トレヴィの泉」
本村 アッピア水道に始まり、ヴィルゴ水道というのは現在でも使われていて、「トレヴィの泉」に注ぐものです。ローマにあるトレヴィの泉の元をたどっていくと、(紀元前1世紀に造られた)ヴィルゴ水道があるわけです。
ヴィルゴ水道は中世の末期に一度修復されています。メンテナンスが大変なために壊れてしまったのですが、近代になってまた改築がなされています。それを使っているわけですから、古代の水道をそのまま使ってトレヴィの泉ができているわけです。
このように、ローマの町だけでも15、6ぐらいの水道がどんどん増えていきます。そういう形できれいな水を確保することにおいて、やはりローマ人は非常に優れていたのではないでしょうか。
また、ローマの町だけではなく、ポンペイに行けば、上水を持ってきて溜めておく水溜めのような設備ができていました。 そこからポンペイの町全体に水を配っていくシステムは、ローマ以上に分かりやすくできています。そういうものがちょっとした地方都市にもあることで、きれいな水の確保が人間にとって非常に大事...