●中東から黒海に至る地域で国際秩序を揺るがす事件が絶え間ないのは帝国崩壊の余波
さて、結局のところ、第一次世界大戦から100年が経っても、中東から黒海に至る地域で国際秩序を揺るがす事件が絶え間ないのは、歴史的に多民族国家として形成された帝国崩壊の余波がまだ消えていないからです。
これに関係することは、以前にもお話したこともありますが、もう一度整理するとすれば、そのリストには、ホーエンツォレルン朝のドイツ帝国、ハプスブルク朝のオーストリア・ハンガリー帝国、ロマノフ朝のロシア帝国、そして、オスマン朝のトルコ帝国がありました。さらに、これらに加えて、大戦勃発の直前に解体した清朝の中華帝国を追加することもできます。
●大戦後、中東は地政学的な位置と天然資源の存在として重要な役割を担う
これまで第一次世界大戦に関する考察は、それがしばしば「欧州大戦」と通称されてきたように、ヨーロッパの中心性を自明の前提として考えるきらいがありました。例えば、オスマン帝国の解体とアラブの反乱といった中東の事象は、脇役に追いやられる傾向がありました。大戦当時にエジプト派遣軍の司令官であったアーチボルド・マレー将軍は、中東の戦線を“sideshow of sideshows”と呼びました。つまり、「主役ではなく脇役」、あるいは、「主なる舞台ではない脇の舞台」、さらに、「脇の舞台の中のまた脇の舞台」というほどのニュアンスです。
これは、その後の中東が果たす役割について、驚くほど洞察力を欠いていた発言と言わなければなりません。中東は、地中海とインド、ひいては、アジアをつなげる地政学的な位置と、石油天然ガス資源の存在によって、第一次世界大戦の前後にすでに進行していた地球規模の経済的相互依存でも、重要な役割を担うことが運命づけられていました。
しかも、第一次世界大戦のインパクトは、むしろアメリカのウィルソン大統領による民族自決主義、すなわち、ウィルソン主義や、ソビエト・ロシアのボリシェヴィズムといった非ヨーロッパ世界の生み出したイデオロギーの強烈さにありました。それらの中心にあったのは、民族自決権と主権の独立、あるいは、主権独立国家や自治国家を承認する原理でした。
この新たなダイナミズムは、近代ヨーロッパ各国の外交と国際秩序観に、大きな修正と転換を余儀なくさせました。イギリス、フランス、ドイツ、ロシアといった大国は、ヨーロッパ域内における勢力均衡のメカニズムによって、お互いの対立関係を調整しつつ、オスマン帝国やエジプト、そして、ペルシャ湾岸のいわゆる休戦条約諸国、すなわち現在のGCC(湾岸協力機構)加盟国の前身でありますが、イギリスとの休戦条約を結んだこうした国々におきまして、イギリスは通商条約や植民地支配によって自らの便益を確保する二重構造を維持してきたのです。
ヨルダンやシリアやイラクという現在の国々の枠組みは、サイクス・ピコ秘密協定以前におきまして、オスマン帝国の州、アラビア語で言う「ウィラーラ」や、トルコ語で言う「Vilayeti(ヴィライェト)」、あるいは、県、アラビア語の「リワー」、トルコ語の「Sancak(サンジャク)」など、こうした行政区画に隠されており、地図の表面にはまだ現れていませんでした。
●大戦によってペルシャ湾の国際秩序は着実に変動
しかし、すでに19世紀末になりますと、根本的な変化が生じ始めていました。それは、日本やアメリカといった非ヨーロッパ諸国が、ヨーロッパの大国と肩を並べながら、国際政治のゲームに参加するようになったからです。それでも、日本の関心は、依然として東アジアと西太平洋、アメリカの関心は、西半球と太平洋に限られていました。
ヨーロッパ諸国は、非ヨーロッパ世界におけるパワー・ポリティクス、すなわち、権力政治と国際政治の構造を従来以上に重要なものとみなし、その構造を再編しようとしました。その大きな変化は、イギリス領インド(British India)、清王朝の支配する中国、中東の地域秩序を支えていたオスマン帝国において顕著でありました。
中でも中東では、ドイツと同盟しながらオスマン帝国が1914年に開戦すると、ドイツとの対抗上、イギリスはエジプトを直ちに、保護国(Protectorate、al-him ā ya)とします。これによって、エジプトは、19世紀のはじめのムハンマド・アリー朝以来、そこにおいて事実上の自主的、独立的な権力を認めながら、宋主権を失わないオスマン帝国、ひいては、イスラム世界との紐帯(ちゅうたい)から離脱してしまいました。これは、第一次世界大戦後エジプトにおける独立への引き金となった、1919年革命と呼ばれる、ワフド党のサード・ザグルール・パシャという歴史的なリーダーによる大きな運動へとつながっていくのです。
パレスチナは、サイクス・ピコ...