●第一次世界大戦時、交戦状態の意識が希薄であった日本
今日は、日本人の第一次世界大戦との関係について、少し考えてみたいと思います。
日本人にとって、世界大戦と言いますと、すぐに第二次世界大戦を想起するように、このアジア太平洋戦争と比べた場合、第一次世界大戦に対する見方はすこぶる希薄です。当時においても、日本は交戦状態であるという意識そのものが希薄な戦争だったのです。と申しますのも、1902年に締結された日英同盟によって参戦しましたが、日本の陸軍部隊による参戦は、ドイツの租借地であった中国の山東(シャントン)半島の青島(チンタオ)への出兵ぐらいであったからです。
●第一次世界大戦後の日本の変化
それでも、日本が戦後に置かれた立場というものは、大隈重信首相の表現を借りますと「天佑」と呼んだ大戦によって、国際的な大国として、その地位の改善に向けて大きく変わったのです。
第一に、赤道以北のドイツが領有していたビスマルク群島をはじめとする南洋諸島を、日本は国際連盟の委任統治国として管理することになりました。さらに、一時的に山東半島青島のドイツ権益の継承も、イギリス、フランス、ロシア政府に認められました。こうして、アジア太平洋におけるアメリカとの勢力均衡に、ひとまず成功したことになります。
第二に、日本帝国政府の権力を長いこと握ってきた政友会と陸海軍、そして官僚の排他的な支配を退けて、新しい政治状況として、政権交代が起き、第二党の勢力が台頭して大正デモクラシーの成立を動かすことになりました。
しかしながら大戦中の1915年1月に、当時の北京政府に対して日本政府が対華21カ条要求を出して、ドイツ利権の継承、満州の権益期間の延長を図り、中国内政への介入権を求めた事実があります。これは、その後の日中関係を悪化させたのみならず、日華事変すなわち日中戦争への道を開くことになった、まことに遺憾な行為でありました。
●日本が担った第二特務艦隊による地中海護衛任務
さらに、エジプトをはじめとする中東諸国との関係で申しますと、イギリスの要請を受けて、日本は1917年4月から第二特務艦隊を地中海に派遣し、ドイツの潜水艦の脅威を受ける連合国の艦船を護送する任務についた点にも触れておきたいと思います。
当初、巡洋艦1隻と駆逐艦8隻、後には4隻が増派されますが、これらからなる日本の艦隊は、マルタ島とアレキサンドリアなどを結ぶ地中海の海上交通路の護衛任務を中心に活動しました。この第二特務艦隊は、348回にわたって護衛任務を実施し、連合国の艦艇と輸送船788隻を護送した結果、約75万の要員を輸送し、34回の戦闘に従事したことが知られています。これに関しては、防衛研究所の石津朋之さんの研究が詳しいです。
日本海軍の活動は、ヨーロッパの西部戦線を崩壊させないために、地中海においてエジプトのアレキサンドリアとマルセイユとの間を結ぶビッグ・コンボイと呼ばれる護送船団の基軸でもありました。しかし、当然ながら、日本の海軍と日本人は犠牲を払っています。駆逐艦の「榊」は、1917年6月に、東地中海のクレタ島の沖におきまして、オーストリアの潜水艦の魚雷攻撃を受けて大破し、艦長以下59名の死者を出す惨事に遭っています。
●地中海での海戦経験を生かしきれなかった日本
しかし、日本と第一次世界大戦との関係を考えるにあたって、地中海での護衛任務から得た貴重な教訓を無視した結果、日本は第二次世界大戦の悲惨な結果を生むことになりました。日本海軍は、潜水艦による通商破壊戦の重要性を、地中海の任務で学んだはずです。そして、シーレーンを切断し海上封鎖を試みる敵の潜水艦と戦う技術、あるいは潜水艦同士の水中戦の重要性を知ったはずなのです。しかし、こうしたことを日本の海軍がその後、教訓として生かした形跡はありません。
また、地中海において連合国が留意した武装商船マーチャント・ネイビー、あるいは護送船団方式といった方式の有用性は、アメリカとの太平洋戦争において海上戦に生かされたとは全く言えないのです。つまり、日本はせっかく第一次世界大戦における地中海での海戦経験を得たにもかかわらず、何も学ばなかったということになるのです。
それでは、最後に、100年前の日本と第一次世界大戦との関係を、次の機会に議論してみたいと思います。今日はこれで失礼します。