●ローマとは設計思想が違う「日本の道」
本村 日本における権威を江戸時代に限ると、徳川の将軍が権力であり、あるいは権威も持っていた。しかし、徳川の将軍というのは、もしかしたらどこか「権威においては京都の天子様のほうにある」と感じているふしがあったから、最後までそこには手を触れないで、結局最後は徳川慶喜が天子様に自分の政権を全部委ねるわけです。
そこに権力と権威の分離があるところが、やはり日本的な特殊なところなのだろうと思います。人によって「天皇なんかいらない」という人は別ですが、外国の人たちから見ると、権力と権威をうまく分離している日本というのは、非常にうまくやっているように見えるらしいです。
―― そういう意味では、例えば東海道などのいわゆる日本の主要街道の起源として「五畿七道」というものが決められたのが、一般には天武天皇の時代だといわれています。ですから、ちょうど600年代ということになってくると思いますが、そういうものの積み重ねが、天皇における「権威」として残ってくるところもあるでしょう。その後、鎌倉幕府は幕府なりに(各地の)鎌倉街道を整備していきますし、(徳川幕府は)五街道を整備していくという形になります。
先ほど先生がご指摘になった設計思想は、ローマとはちょっと違う形でした。ローマの場合はとにかくまっすぐ相手のところにすぐ行けるようにする整備ですが、徳川幕府の場合は大きな川に橋を架けることを禁じて、架橋した者には極めて重い咎を科すようなことがあったり、旧街道も結構クネクネしていたりしました。これは、昔ながらの道を生かしたところもあるのでしょうが、どちらかというと防御を優先に考えているところがありますね。
本村 そうですよね。箱根の関所をはじめ、非常に防御中心というのが日本的な設計だということはあります。
●日本の道における「参勤交代」の役割
本村 でも、やはりそこを中心にして、権力者が権威を見せる。単に便利だから道をつくるわけではなく、そこを起点として全国に一つの道路網が発展している。道路は非常にビジュアルで分かりやすいわけですから、「権威」というものをつくりあげていく上で、非常に重要なのではないでしょうか。
ローマの場合はそれが典型的に出てくるし、日本の江戸時代においても、ただ便利さのためだけではなく、やはり徳川幕府が権威を高めるための面もあったのかと思える。ましてや日本の場合は、参勤交代をさせて、年がら年中大名行列が往来したわけです。それはやはり徳川幕府の権威を高めていくことになるのではないかと思います。
―― 参勤交代というものを非常に面白く書いた本がございます。徳川宗家18代の徳川恒孝(つねなり)という方の書いた『江戸の遺伝子』(PHP文庫)という本です。この中で徳川氏が言っているのは(徳川家の方だからということもあるでしょうが)、「参勤交代は各大名の経済力を富ませないよう、使わせるような目的があって行われたといわれている。その反面、北から南まで全ての藩が江戸にやってきて、江戸で交流していくことで、日本が一つになった面もある。各藩の人が江戸で交わり、勉学やいろいろな交渉の中で互いの地方の文化を知る。地方の文化を持ってくる。江戸の文化を持って帰る」、そういうよさがあったのだと書かれています。
確かに、あれだけ大規模な移動を、毎年ではなくても年を追って繰り返すというのは大きいことだと思います。また、権威についていうと、そういうものが全部やって来る江戸の権威が高まることは当然ありますし、各藩ともに格式をかけて壮烈な行列を組み、重々しく歩いてくる。それが、その藩にとっての一つの見せ場にもなるわけです。
本村 そうですね。
―― これが実は江戸っ子などからすると、いい見物だったと(笑)。伊達様が来たとか、何様が来たとか言いながら、見て楽しむこともあったようです。やはり本当に道が象徴するものですね。
本村 ペリー来航以来、外国の文化や軍事力、それに商人たちが入り込んできました。それで、アジアのあらゆる国がほとんど植民地化されている中、日本だけがそれを免れたのは、もしかしたらそういう参勤交代で一体化している武士階級があったからではないでしょうか。もちろん、それぞれに方言もあるし、いろいろな違いはあるけれども、世界史的規模の中で考えれば、それなりの一体感を持ちやすい。あるいは情報がどこかで一挙に(つながったのかもしれません)。
例えば「廃藩置県」などを見ても、なぜああいうものが成功してしまったのか、他の国では考えられないほどです。もちろん日本でも、それに対する反感や反抗もありましたが、大規模な形ではなかった。そういう意味では、どこかで一体感を持てるようなものとして、徳川家の方がおっしゃるよ...