●ウェーバーの予言-資本主義は禁欲から脱する
私が今日、皆さんとシェアしたいのは、ドイツの社会・経済学者であるマックス・ウェーバーの予言です。
「禁欲の精神はこの鋼鉄の“檻”から抜け出してしまった。勝利を手にした資本主義は、今では禁欲という支柱を必要としていない。禁欲の跡を継いだのは晴れやかな啓蒙であった。しかし、啓蒙の薔薇色の雰囲気すら現在では薄れてしまった。職業の義務(天職、Beruf)という思想が、かつての宗教的な信仰の内容の名残を示す幽霊としてさまよっている。“職業の遂行”が、もはや文化の最高の精神的な価値と結びつけて考えられなくなっても、そしてある意味ではそれが個人の主観にとって経済的な強制としてしか感じられなくなっても、今日では誰もその意味を解釈する試みすら放棄してしまっている。営利活動がもっとも自由に解放されたアメリカ合衆国においても、営利活動は宗教的な意味も倫理的な意味も奪われて、今では純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある。ときにはスポーツの性格をおびていることも稀ではないのである。」
これが110年前の予言です。当たってしまいましたね。
●資本主義がスポーツの性格を帯びていた
大澤真幸氏は、「サッカーと資本主義」と題して、こう言っています。
「資本主義というのは、パラドックスから生まれている。非常に厳格な宗教的な信仰から、その信仰を否定する形で生まれている。それはサッカーのようなものだ」
サッカーは、手を使わず、足を使いますので、非常に人間の本性には反した感じです。ところが、それにもかかわらず、いや、それだからこそ、今、世界中に広がっています。こういう関係が資本主義にはあるのではないか、という議論をされているのです。
私が面白いと思うのは、「スポーツと資本主義を結び付けて議論することができる」と考えている人が、今、少なからずいるということです。そして、ウェーバーはすでにそのことを、「スポーツの性格を帯びていて、もはやここには禁欲という支柱などはない。そういう時代に入るだろう」と、強く言っていたのです。
●資本主義の行きつく先-ウェーバーが出した三つのオプション
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の最後で、ウェーバーはこう言っています。
「将来この鋼鉄の“檻”に住むのは誰なのかを知る人はいない。この巨大な発展が終わるときには、まったく新しい預言者たちが登場するのか、それとも昔ながらの思想と理想が力強く復活するのか、あるいはどちらでもなく、不自然きわまりない尊大さで飾った機械化された化石のようなものになってしまうのか。」
こういうオプションを出しており、どれも私たちの時代を暗示している感じです。さらにウェーバーは、こう述べています。
「最後の場合であれば、この文化の発展における『末人』、『最後の人間(ニーチェの言葉)』にとっては、次の言葉が真理になる。“精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう”」
●コジェーヴが見た「歴史の終焉」-アメリカ的生活様式で人間は動物に戻る
「歴史の終焉」という言葉を、皆さんお聞きになったことがあるかと思いますが、アメリカの政治経済学者であるフランシス・フクヤマの議論で、冷戦終結の後、一躍有名になった言葉です。
「歴史が終わった。もう完全に民主主義、資本主義が勝利をした」。このように高らかに宣言をしたわけです。
しかし、フランシス・フクヤマが基礎としたのは、ヘーゲルの議論だったのです。ヘーゲルの議論の中で「歴史の終焉」について最もよく議論したのが、アレクサンドル・コジェーヴです。ロシア出身の哲学者である彼は、最終的にフランスに亡命するのですが、実は1959年に日本を訪問しているのです。そして、彼は、1968年、亡くなる直前に、名著と言われている『ヘーゲル読解入門』を出します。これに一つ注を付けたのですが、これが非常に奇妙な注でした。そこにはこうあります。
「合衆国とソ連を旅行してみた。私はアメリカ人が豊かになった中国人やソビエト人のような印象を得たが、それはソビエト人や中国人がまだ貧乏な、だが急速に豊かになりつつあるアメリカ人でしかないからである。“American way of life”は、ポスト歴史の時代に固有の生活様式である。人間が動物性に戻っているのだ」
これは、ウェーバーのアメリカに対する診断と、非常に呼応しています。コジェーヴは、アメリカに、つまり、“American way of life”(アメリカ的生活様式)に歴史の終焉、すなわち、人間が動物に戻る生活のスタイルを見たと言っていたのです。