●プロテスタンティズムの倫理が資本主義の無際限の欲望を解放した
資本主義の精神と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、当然マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本です。これは、だいたい110年前の1905年に出版をされています。
今年は第一次世界大戦100周年なので、20世紀とはいったい何だったのか、そして、20世紀にとっての資本主義は何だったのかを考えると同時に、20世紀は戦争の世紀でもありましたので、いったいあの戦争、しかも、世界化した戦争とは何であったのかを考える非常によい年だったかと思います。
私は、今日、このウェーバーについて、もう1回考え直してみたいと思います。ウェーバーは、この本の中で、「プロテスタンティズムの倫理、すなわち、世俗内禁欲という倫理が、かえって資本主義の無際限の欲望を解放した」と述べていました。つまり、パラドックスですね。本来であれば、キリスト教、とりわけ、プロテスタンティズムは禁欲を主張しますので、儲けることに対しては厳しい態度をとるのです。ところが、それにもかかわらず、プロテスタンティズムから資本主義が生まれてきたとまでは言いませんが、資本主義を支える仕組みが登場したと、ウェーバーは論じたのです。
●ポスト世俗化の時代、世界各地で宗教が復興をしている
では、今日はどうなっているのかというと、ウェーバーの時代に比べましても、資本主義の速度はますます増しています。一個人や一社会では対処できない、グローバル・イシューズと言われているような非常に困難な問題が、われわれの目の前に現れてきています。
しかも、これは重要な概念なのですが、同時に今「ポスト世俗化の時代」と言われています。近代は、世俗化、secularizationの時代だと言われてきました。つまり、政治と宗教の分離なのですが、それまで宗教は社会の全体を覆っていたのです。ところが、その宗教が個人の内面の問題に還元されていきました。そして、社会の公的な領域から宗教が退いていき、政治が宗教から独立して、ある種の公的な空間を構成していくようになるということが近代だと言われてきたのです。ですから、ウェーバーのプロテスタンティズムにしても、プロテスタンティズムの倫理、すなわち、世俗内倫理、世俗内道徳という形で宗教が残ったことを前提にしていたのです。
しかし今、世界を見ますと、イスラム国もそうですし、あるいは、インドでは、ヒンドゥーナショナリズムという形で、ヒンドゥー主義が復活をしています。私の専門の中国、あるいは、中国の周辺では、儒教が大変な勢いで復興しています。
こういう世界的な状況、つまり、世俗化が問い直される時代、あるいは、宗教が新しい姿をとって現われる時代において、資本主義がどうなっていくのかを考える必要があるだろうと思うのです。
それを踏まえた上で、例えば、グローバルな市民社会を私たちは本当に構想できるのかという問題があります。それを構想するとき、資本主義の精神は何であり得るのかを今日は考えてみたいと思っています。
●欲望とは、他者の欲望を欲望すること
まず、資本主義とは何か。これには、汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)の議論がありますので、どれに与してもいろいろな反論がすぐに予想されますが、今日は、まず最初に、欲求と欲望を少し区別して考えてみようと思います。
欲求とは何かですが、例えば、食べることは非常に強い欲求ですね。つまり、身体的、生理的な充足を目指していきます。ただ、われわれがどんなに食べようとしても、例えば、おにぎりを一時に1000個食べることは無理です。あるところで満足をしてしまいます。
ところが、それに対して、欲望は無際限になり得る可能性を持っています。例えば、先ほどこちらの会員さまの中には、無際限の欲望をお持ちの方がいるとうかがいましたが、いったいなぜそのような無際限の欲望を人は持つことができるのでしょうか。これは一つの大きな問題だろうと思うのです。
哲学の中で、欲望の定義は非常に単純で面白く、「他者の欲望を欲望することが欲望だ」と定義されることがあります。
どういうことかというと、例えば、私の子どももそうなのですが、iPhoneが欲しいと言います。友達が皆持っているからそれが欲しいと言うのです。ということは、実はどうもiPhoneそれ自体を欲望しているのではなく、iPhoneをめぐる他人の欲望を取り込んでいく構造が人間の欲望にはあるだろう、ということです。
この問題を一番に論じたのは、ヘーゲルという哲学者です。「人間は、他人に承認されたいという欲望を持っている。だから、他人が欲するものを欲することによって、自己承認を高めていく。ここに人間の秘密がある」と言うのです。
そうしますと、...