●もう一人の祖父・安倍寛
今回は、安倍晋三総理とおじいさんのDNAというお話をしたいと思います。おじいさんというのは、みなさんよくご存じの岸信介さん、これが母方のおじいさんです。
もう1人、実はあまり安倍さんはお話にならないのですが、父方の、父というのは安倍晋太郎さんですが、そのお父さんが安倍寛さんという、やはり国会議員をやった方がいます。
この岸さんと安倍さんというのは、実は同じ山口県、昔で言う長州の出身で、岸さんは明治に生まれた方ですが、非常に対照的です。
岸さんについてはあとで詳しく述べますが、戦前に戦争責任を問われて、一時はA級戦犯の容疑者にもなった、日本の保守政界の右派の源流的な戦後の流れを作った方です。
安倍寛さんという人は、実は岸さんより2年前の明治27年、1984年に同じ山口県で生まれて、同じ当時の東京帝国大学を出た方ですが、当時そのような言葉があったかどうか分かりませんが、非常にリベラルな系統の方です。一つは非常に金権腐敗の政治を批判して、政界を志したということもあるのですが、軍部の特に東條政権に強く反対して、大政翼賛会ができたあとの戦争中に国会議員になりました。
実は、岸さんは大政翼賛会の候補者として当選を果たすのですが、この安倍さんは大政翼賛会という戦時体制にくみしないという立場から選挙に出て、見事に当選したという経緯の持ち主です。ところが、残念なことに戦後第1回の総選挙に向けて準備をしていたときに、心臓麻痺で亡くなってしまったのです。このため、安倍晋三さんは、このおじさんと会ったこともないわけです。そういうこともあってか、あまり安倍寛さんの影響を受けていないように感じられます。
●A級戦犯容疑者として逮捕され、後に総理となった岸信介
むしろ岸さんのDNAが色濃く安倍さんに流れているとよく言われるのですが、そのことについて、少し詳しくお話しようかと思います。
岸さんは戦前に商工省という役所のエリートの道を歩むのですが、非常に優秀な官僚として嘱望されました。満州国というのが満州事変のあとできて、日本の傀儡国家だと言われるわけですが、ここの高官、お役人の事実上トップとして満州に呼ばれて赴きます。当時の軍人たちとよしみを通じながら満州の支配にあたった経緯の持ち主です。
そのことを、岸さんは非常に誇らしく思っていたようで、満州という国のその設計図は自分も書いたのだというようなこともおっしゃっていたわけです。
それから、日本に戻ってその後商工大臣になります。東條英機政権で大臣になりまして、軍需省というのができたときに、その次官にもなります。次官といっても、この軍需大臣というのは東條首相が兼務していましたので、事実上のトップということで、軍事産業をどのように育てるかということも岸さんの役割になったわけです。
そして太平洋戦争でパールハーバーの攻撃を始めるときに、閣議で署名をするわけですが、岸さんも署名したということで、後々戦争が終わってからA級戦犯の容疑者として逮捕されて、3年半に及んで巣鴨の拘置所生活を送ったわけです。
しかし、岸さんは幸運にも裁判にかけられないまま釈放されます。これは、当時のGHQ、アメリカの占領政策が変わって、最初は民主化、あるいは戦争の責任の追及というところにウエイトがあったのですが、だんだん冷戦状況がアジアでも激しくなって、朝鮮半島では北朝鮮にソ連の影響下の政権ができる、あるいは中国が共産化していくという中で、日本の保守勢力を育成しようということで、岸さんは釈放されたのではないかと言われています。
そういう岸さんが、後々アメリカとも非常にいい関係を結びながら総理大臣になる。そして、憲法改正という悲願を掲げつつ、日米安保条約の改定を成し遂げるという成果をあげたわけです。
この岸さんを、本当に子どもの頃、安保騒動があったときに、まだ5歳か6歳の幼児だった安倍晋三さんはそういうおじいさんを見ながら、すばらしい自分の信念を貫き通した政治家であるというように尊敬しながら育って、今日にきたという経緯があります。
次回、もう少しそのあとのお話をしたいと思います。