●岸信介氏が進めた日韓国交交渉
前回まで、安倍総理大臣が、祖父である岸信介さんから、いかに影響を受けているかというお話をしました。今日はその続きで、岸さんが安倍総理にはない、ある側面を持っていたというお話をしたいと思います。それは日韓関係、韓国と日本の関係です。岸信介さんが総理大臣をしている頃、日本と韓国には国交がありませんでした。なんとか国交を開こうということで、日韓の国交交渉がずっと行われていたのですが、その途中で、日本側の代表の発言が韓国をいたく刺激するといった出来事があって、4年以上にわたり交渉が中断されるという状況になったのです。
当時韓国は、李承晩(イ・スンマン)大統領が大変反日的な人でした。しかも日韓の間にある海上に「李承晩ライン」と言われる線をひいて、そこから韓国側に入ってきた漁船を次々に拿捕して、漁民を捕らえるという問題もあったわけです。
そういうことから、岸さんは、なんとか漁民を返してもらうことに加え、日韓交渉をもう一度再開しようということで、いろいろなパイプを使って努力するのです。
それがある程度できた段階で、岸さんは今度、なんとか首脳会談を開きたいという思いに至るわけです。
●李承晩との交渉~反共同盟への想いと韓国への謝罪~
これには伏線があります。岸さんは、中国という共産主義化したアジアの大国を意識して、東南アジアから台湾まで歴訪します。その中で唯一、岸さんができなかったのは、韓国との関係でした。
韓国は、当時北朝鮮と一応休戦していましたけれども、引き続き大変な緊張関係にあり、北朝鮮の背後にソ連や中国という共産国家があった、そういう時代です。
岸さんは、アジアの反共連盟を作ろうという気持ちがありましたので、なんとか韓国とも関係を作りたかったのです。しかも、大変仲が良かった台湾の蒋介石(ショウカイセキ)さんが、岸さんに対して、それを強く勧めていたわけです。岸さんのほうでも、蒋介石に、なんとか李承晩に口添えをしてくれるように頼んでいたのです。
そういう状況の中で、岸さんは、総理大臣になって数ヶ月後の1958年5月、満州時代以来大変親密な仲だった矢次一夫さんを、自らの特使として韓国に派遣します。
矢次一夫さんという人は、民間の人ですが、政治・外交の裏方としていろいろなパイプを使って動いていた人で、台湾や韓国とのパイプも持っていました。この人に、政府の正式な特使ではなく、岸さんの個人的な特使という形で李承晩大統領と会ってもらうわけです。矢次さんは、岸さんから〝初心忘るべからず〟という書をもらい、韓国に渡ります。そして李承晩に岸さんの親書を渡しながら、次のようなことを伝えたと言われています。それは、李承晩のことをアジアにおける反共のリーダーとして大変尊敬に値すると称えた上で、自分は長州・山口県の出身で、明治維新で活躍した伊藤博文の後輩にあたるけれども、郷土の先輩である伊藤博文元首相が犯した過ちを謝りたいということでした。
1905年、伊藤博文さんは、日韓併合条約に至る前段に日韓保護条約を作ります。このとき、伊藤博文さんはすでに総理大臣を終えていたのですが、日本の代表として軍隊を従えて韓国に乗り込み、向こうの皇帝と相まみえました。それは、韓国を保護する名目で外交の権利を日本側が取り上げるという内容の条約ですが、それに同意を迫ったわけです。これに同意しない場合には、お国は大変なことになるということを言って、向こう側の皇帝を屈服させて作ったのが、日韓保護条約だと言われています。
そして、そのあと4年後に伊藤博文さんは、安重根という韓国の独立運動家の手によって満州のハルビンで暗殺されるわけですが、それから間もなく日韓が併合されることになるのです。
つまり、伊藤博文という人は、保護条約を作り、さらにそのあと韓国に韓国統監という名前で渡り、韓国を保護する責任者として君臨したという人なのです。
そういうことを踏まえて、岸さんは、植民地化していく過程で、自分の郷土の先輩が間違いを犯したことを謝りたいと、非公式な形ではあるけれども、矢次さんに託して伝えたわけです。
後々岸さんはそれを公には認めていないのですが、矢次さんは、韓国・ソウルでの記者会見でそういう趣旨のことを話していますし、帰ってきてから日本で書き残したものにも、そういうことが書かれています。
また当時の韓国の外交官で金東祚(キムドンジョ)という人がいて、日韓関係の立役者でもあった人ですが、そのときに同席していて、そのことを書き残していますし、私も、ずいぶん前に、その方からその話を取材で聞いたこともあります。
ですから、岸さんは、そういうことまで言いながら、なんとか日韓関係を打開しようとしたのです。
これは、本心なのか分かりません。ある意味でかなり戦略的...