●中曽根番記者から始まった日本の政治ウォッチング
朝日新聞の星です。よろしくお願いいたします。
ここ30年ほど、私は日本の政治ウォッチをしてきました。始まりは1985年の中曽根康弘政権。いわゆる総理番記者として中曽根さんを1日中フォローする仕事からスタートして、今日に至っています。
1985年の夏は非常に思い出深い夏です。8月15日の終戦の日に中曽根総理が靖国神社に公式参拝をしました。非常に暑い日だったことを、今でも覚えております。
その前段、靖国神社の公式参拝をするための準備として、中曽根総理は有識者に「公式参拝は可能か」を諮問しました。これは藤波孝生官房長官のもとに集められた有識者の懇談会を基本とし、靖国神社参拝のあり方について意見を求めていきました。結局そこでは、「やり方によっては、憲法に抵触しない参拝が可能である」という意見がまとめられ、それに基づいて総理の公式参拝が実現したわけです。
29年前になりますが、内外にいろいろな議論が起こりました。現在とはやや違う角度から総理の公式参拝が論議されましたが、その一つとして、政治と宗教のあり方が問われました。つまり、総理大臣が「靖国神社」という宗教施設を参拝するのは、特定の宗教をエンカレッジ=支援する行為になるのではないか。それは、憲法に抵触するのではないか。ここが、一番大きなテーマだったのです。
●中曽根さんが参拝に踏み切った理由、一度で終わった理由
「靖国懇」という有識者の機関は、公私の別をきっちり分け、玉串料の払い方などに気を付ければ、特定宗教の支援には当たらないと結論を出し、中曽根さんは参拝に踏み切りました。
これには非常に大きな反応がありましたが、参拝の直後に中国では靖国神社参拝を糾弾する学生のデモが起きました。中国で混乱が起きたのを見て、中曽根さんは「翌年の参拝は見送る」と決めました。それで最終的には、総理の公式参拝は一度限りということになったわけです。
参拝当時の官房長官は藤波孝生さんでしたが、翌年には後藤田正晴さんが2度目の官房長官として就任しました。この後藤田さんが靖国参拝反対派であることもあり、中曽根さんは2度目の参拝は見送る経緯もありました。
総理大臣というものが、いたって周到に準備を重ね、法律や外交の問題をクリアしながら「参拝」に道を開いていくのだという経過を、私も目の当たりにしました。結局、それが外交問題になったために中曽根さんは次は止めました。ある意味、そこは彼の柔軟さとも言えますね。一度はチャレンジしてみたけれども、いろんな悪影響が起きたということを受けて、次は止める。その柔軟さは総理大臣としての大事な資質の一つかと、政治記者1年の私は学んだところでした。
●1985年から30年の政界で、最大の節目は「政治改革」
以来、ずっと日本の政治を見てきましたが、一番大きな節目はやはり「政治改革」でした。
1993年に当時の宮澤喜一政権が崩壊し、自民党が総選挙で敗れます。その前段として自民党は内部分裂し、小沢一郎さんの率いる勢力が「新生党」を作りました。それから、武村正義さんたちが「さきがけ」という党派を作りました。こうして自民党が分裂したために、社会党などの提出した内閣不信任案が可決され、総選挙に突入しました。自民党は相対的に第1党には留まったものの過半数割れを起こし、非自民政権が生まれました。
細川護熙非自民政権です。その最大の眼目は、政治改革の実行でした。それまでの衆議院は、定数が3から5の中選挙区で構成される130選挙区から成っていました。これを300の小選挙区に分け、比例制を加味して新しい選挙制度にしようとはかります。
●自民党の与党失脚が生んだ「小選挙区制度」の功罪は?
これには、中選挙区そのものが自民党の「派閥」の温床であり、派閥がお金を集めることが腐敗につながるのだという後藤田さんや伊藤正義さんの提起が元となっています。それに当時の若手議員たちの賛同が集まり、政治改革の流れとなって細川政権は成立しました。
実はそれまで、自民党というのは結党以来ずっと政権与党=政権党で来ているのです。たまたま私は1955(昭和30)年の生まれで、自民党とは同じ歳、当年とって58歳になります。その自民党が初めて政権を降り、細川非自民連立政権ができて、小選挙区・比例代表並立制が衆議院に導入されました。そこで、日本でも小選挙区を中心とした2大政党、政権交代可能な2大政党を作ろうという動きが始まったわけです。
それ以来総選挙は、1996年、2000年、2003年、2005年、2009年、2012年と6回行われましたが、いずれも小選挙区によって争われてきたということになるのです。
よく政治にまつわる俗説として、「日本に小選挙区制度はふさわしくない」と言われます。小選挙...