●平成の30年を振り返る
平成の30年を振り返って、というお話をします。
平成ということを考えるときにどこから始めるかというと、私は冷戦の終焉に起点を置きます。天安門事件が1989年6月4日にありました。それがベルリンの壁の崩壊につながっていますし、ソ連の崩壊も起こりました。また、別の問題として、湾岸戦争、あるいは9.11のアメリカ同時多発テロ事件がありますが、これは少し置いておきます。
それから、自民党の長期単独政権が終わったということが、平成に起こっています。もう1つはバブルの崩壊です。日本の成長がここで終焉を迎えるわけです。さらにいえば、アナログからディジタルへという世界のインターネットを中心として情報がグローバル化していきます。そして、日本社会で見れば、人口減、高齢化が急速に進んだ。これが平成です。
●私の平成史~政治改革や司法改革、大学改革などにコミット~
私の個人的なことを申し上げれば、1990年4月1日から、慶應義塾大学のSFC湘南藤沢キャンパスをスタートします。ただ、企画、あるいは構想は1986年からですが、新しい大学を打ち出します。別の言葉でいえば「新幹線の大学」といっていいと思います。これは通常の電車を20パーセントくらいまではスピードアップできるけれども、2倍の速度は無理だろうというような意味です。それでも、新しい大学として、AO入試だとか総合政策、政策・メディアなどのコンセプトを出しました。AO入試は私が担当者として設計したので、よく分かっています。
また、キャンパスのスタートの時からインターネットが普及していて、学生全員にアドレスがあり、この直後、インターネットにおけるブラウザー、ネットスケープなどを使った記憶があります。
それから私自身は、それまで理論的なことを紙と鉛筆でずっとやってきたのですが、現実政治の冷戦が終わった、バブルが崩壊したということに関与していくようになります。細川政権が誕生すると、政権に対する発言も増えました。同時に政治改革や司法改革、大学改革などの改革にコミットしました。
●政治改革30年史と短命政権
その中で、政治改革を考えて30年の歴史を振り返ると、小選挙区比例代表並立制の導入ということで選挙制度改革が1つ大きい点として挙げられます。2つ目が橋本行革(橋本龍太郎氏による行政改革)です。3つ目が2003年を転換期として、マニフェストによる選挙です。つまり、選挙をもっと責任のあるものにしようという改革が行われたのです。
それらを振り返ると同時に平成の内閣をずっと見ていくとお分かりのように、平成元年という起点でいうと、竹下登内閣も入れていいのかなという気もしますが、宇野宗佑氏、海部俊樹氏、宮澤喜一氏、細川護熙氏、そして羽田孜氏も含めて非常に在任期間が短いのです。
この中では、小泉純一郎氏が首相としてのキャリアは長かったのです。それから、第二次安倍政権の安倍晋三氏が現在まで続いていて、これは長い事例です。けれどもそれ以外は、非常に短い。特に小泉氏以降、現在の安倍氏まで1年に1人の首相というような短命政権が続いた歴史があります。
●制度には2種類ある
この短命政権ということと政治改革は必ずしもリンクしません。たまたま政権が短かったということでもあるのです。制度を改革するというのは、政治改革に限らず行政改革をする、あるいは司法改革をするということでもあるのですが、では、制度の改革とは何かということを少し振りかえってみます。
制度には通常2種類あり、経済学者や社会学者などは「制度は進化する」という考えです。制度はエボリューショナリーな発展を遂げるという、経済学者の青木昌彦氏などはこちらの立場です。生物の場合は進化的発展を遂げるわけで、このような制度では自然治癒があり得るのです。
ところが、政治学者、行政学者が扱う制度については、「ルールは決めるものだ」と考えます。国会なり内閣が決めたルールに従って現実の政治を動かすと考える。このような立場を取る制度がもう1つあるわけです。こちらの制度だと、機械と同じように自然治癒はありません。そうすると、絶えず点検をし、絶えず修正をする必要があります。それを誰がするのか。国民であったり、政治家であったり、あるいは内閣だったりします。
ですから、制度は放っておけば劣化する。しかし、劣化から自然治癒することはない。これが政治学者、行政学者が取る制度に対する立場ということになります。「制度疲労」という言葉が昔はやりましたが、制度は...