●息子を強くするため38度線に連れて行く
行徳 私事になりますけれど、私の息子のことをお話ししようと思います。なんとか、息子に強くなってもらいたいと思って、中学一年生になった時に、実は、韓国に息子を連れて行ったのです。それには訳がありまして、38度線に入れることでした。あそこはその当時、戦場と呼ばれていまして、もう30年ほど前のことです。弾が飛んでくるわけですから、そのような所に息子を入れようとしても、中国政府は許可をしないのです。
―― なるほど。つまり、先生は「常在戦場」ということを息子さんに教えるため、最初に朝鮮半島の38度線に入ろうとされたのですね。そして、その時、ある将軍が書いたという掛け軸を目にされたと。
行徳 実はその掛け軸を持ってきているのです。
私の息子は、当時まだ随分と子どもでしたから、肩にカメラを担いで、まるで観光気分だったのです。そこで、許可は下りたのですが、条件があると言うわけです。それは、私と息子が戦場に入って弾に当たって死ぬ、あるいはけがをしたとしても、国際法上の申し立ては一切しないというものでした。ですから、日本でどのような保険に入ってきても、戦場ですから使えないということです。その書類にサインしてもらえるのであればご案内します、ということでしたので、サインをして北側に向かったわけです。
●着いた場所は南北を分ける「帰らざる橋」
行徳 それまで、私の息子はカメラを担いで観光気分でした。ところが、そんなものが片っ端から砕かれていくわけです。大体、道路にやたらと橋桁があるのです。橋もないのに橋桁だけあるわけです。私は、「何ですか。このような道路の真ん中に橋桁がたくさんありますけど」と聞いたら、それは全部爆薬でした。つまり、ボタンを一つ押すことによって、その橋桁を全て爆破し、戦車を通れないようにするためだったのです。
それは、真夏の猛烈な暑い日でした。クーラーの効いた車は用意してもらえませんから、窓を開けて走るわけです。そこは地雷の中を縫って行っているため、もしタバコを外に捨てて、その火が地雷の雷管に当たったら、一瞬で車がふっ飛びます。
そのような中で、息子はだんだん緊迫し始め、そして、着いた場所があの「帰らざる橋」でした。もう25年ほど前にベルリンの壁はなくなりましたけれど、まだ韓半島には、汚れてしまいましたが「帰らざる橋」が残っているわけです。これは悲劇の橋です。韓半島はこの橋によって北と南に分かれて、多くの人がお互いに郷里を失い、そして、親が子どもに銃を向け、子どもが親に銃を向けたという悲劇の橋です。その橋のたもとにポプラの木があったのです。「あった」と言うのは過去の話だからであって、今はもう記念碑があるだけです。
●戦いを忘れている日本は、危機にある
―― しかし、先生、この書はすごいですね。生きるとは戦うことであり、現代人はそのことを忘れているのではないか、と。ここから、松岡修造さんもウィンブルドンに向かったわけですね。これは、まさにぴったりの言葉だと思います。
行徳 息子がたまたまカメラでポプラの木を映そうとしたら、M.P.(憲兵)に突き飛ばされたのです。緊迫していましたので、兵舎に休ませてもらったところ、その時、目にした掛け軸の言葉がこれなのです。
「天下雖安 忘戦必危」
つまり、天下安らけきといえども、戦うを忘るるは必ず危機に至る、ということです。この戦いを日本人は忘れていますよ。ですから、日本はある意味、危機にあるのです。それが、「常在戦場」ということです。
●「米百俵」に込めた常在戦場の精神
行徳 この「常在戦場」についてお話ししますと、小林虎三郎(越後長岡藩大参事)は百俵の米をもらったところ、それを藩士皆で分けることを許さなかったわけです。皆が飢えるという状況の中、米百俵で学校をつくろうとしたわけでしょう。そこで、実は、血気にはやった藩士たちが何人かで、虎三郎を襲ったのです。虎三郎はそれこそ殺される寸前でした。「米百俵」という映画にも出てくるのですが、その時の掛け軸が「常在戦場」なのです。これは、長岡藩牧野家の藩主が書いたものです。
この言葉に誓って、斬り込んでこようとする藩士たちを制し、結局、長岡の藩校ができたわけです。
●カンボジアで実感した日本の平和ボケ
行徳 とにかく、私たち日本人は平和にボケています。平和ボケです。ですから、私は若者たちを連れて、平和とは何かを考え平和と向き合うために、いろいろなところに出かけて、カンボジアまで行ってきたわけです。それが、あの例のキリングフィールドです。あの時は60人ほど若者を連れて行ったのです。さすがに、あのキリングフィールドに行った時、若者たちは言葉を失っていました。あたり一帯が...