●いま日本に必要なのは変乱煽起者である
行徳 私が今、一番やりたいのは、変乱煽起者になるということです。
―― 行徳先生の『感奮語録』(致知出版社)に「ボルテージとは波動である」と、書いてありますね。そして、こう続きます。
「波動を出す人物は元気を生み出す。その代表的人物が吉田松陰である。松陰の一挙一動は波動となって伝わり、若者たちを奮起させ、煽起させ、幕末を揺り動かすエネルギーを生み出した。吉田松陰は、変乱煽起者である。アジテーターである。熱狂のディスペンサーであった」
熱狂のディスペンサー、これはすごい表現ですね。続けます。
「今の日本に一番必要なのが、この変乱煽起者なのである。吉田松陰は時に目に涙を含み、声震わして弁じ、甚だしきは熱涙点々と書をしたため、また、時に目が裂けるほど大きく見開き、髪の毛が逆立つほどの怒りを示したという。その一方で、和んだときには、花に蝶にと戯れたともいう。この二面性が松陰をして変乱煽起者としたのではないか」
これですよ、先生。これは、先生自身だし、先生の真骨頂でしょう。
行徳 何だかんだといっても、変乱煽起者の最たる人物は、中野正剛です。3000人を前に「天下一人を以て興る」と言った、あの中野正剛です。その中野正剛の師匠は、反共の頭山満です。
中野正剛が早稲田の大隈講堂で行った演説は、日本の演説史上に残るもので、3000人もの若者が集まったそうです。やはり、あれは現代史に残るものだと思いますし、しかも、中野正剛の果て方がすごいでしょう。割腹自決ですから、今も、血だらけになった服が残っていますよ。
―― あれはすごいですね。
●幕末期、若者たちを煽起した先達の存在
行徳 実は昨日、私は大阪の適塾に行ってきたのです。孫を連れていましたから、京都の帰りに少し適塾に行こうということになったのです。慶應義塾をつくった福沢諭吉も適塾出身ですけれど、私は、やはり橋本左内に注目します。
橋本左内は、二十歳前から適塾にいましたが、その橋本左内を橋本左内たらしめたのは、松平春嶽 (越前藩藩主)です。春嶽は、二十歳の若者の意見を聞いていたのです。その意見を聞く部屋である料亭が今、史跡として福井市内に残っています。ここは一回、行かれたらいいですよ。そこに、春嶽はいつも左内を呼んでいたのです。
―― すごいことですね。
行徳 また、吉田松陰を育てたのは、私は、周布政之助(長州藩藩士)だと思います。そして、橋本左内は松平春嶽、西郷隆盛は島津斉彬(薩摩藩藩主)が育てたのです。あのような年を重ねた先輩たちが、若者たちを煽起させているのです。吉田松陰はやはり周布政之助によって煽起させられ、自らがあれだけの変乱煽起者になっていくのです。
●若者たちに「松陰たらん」を教える
行徳 ですから、私は、吉田松陰の墓に若者を連れていきます。しかし、皆、松下村塾までは行きますが、上までは登りません。墓に行かないのです。吉田松陰の墓は粗末な墓なのです。ですから、墓から少し道を隔てたところに吉井勇の歌碑があるので、その前に若者を立たせるわけです。
そこに何と書いてあるかというと、「萩に来て ふとおもへらく いまの世を 救はむと起つ 松陰は誰」です。そこで若者たちに、「この松陰は俺だぞ。世を『救はむと起つ松陰』は、今は俺だ」、そう言えと言うのです。そうして、若者たちは、松陰の墓の粗末さに感じ入るわけです。 高杉晋作の墓も、非常に粗末なものです。
●日本が誇る教場-松下村塾、適塾、咸宜園
私は、やはり世界最高の教育者は松陰だと思います。ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチではないですね。世界の教育史上では、ペスタロッチが世界最高の教育者といわれていますが、私は、わずか2年ほどの短い間に、一国の宰相、あるいは、一国の政治に関わったあれだけの歴史上の人物を生んだ教場は、どこにもないと思います。
―― 伊藤博文も出て、山県有朋も出て、久坂玄瑞も出たと。
行徳 乃木希典も、です。ですから、世界最高の教場は、松下村塾です。私は適塾に行って少々幻滅しました。適塾はきれいすぎるのです。
―― 適塾はきれいすぎるのですね、先生。
行徳 ですが、何だかんだいっても、適塾では、福沢諭吉に、橋本左内、大村益次郎も学んでいます。ただ、大村を育てたのは、日田(大分県日田市)の咸宜園です。広瀬淡窓が開塾した咸宜園です。咸宜園には、頼山陽、高野長英もいました。刺客に襲われたり自刃したりと壮絶な果て方をする者も多く、淡窓と交流のあった高山彦九郎もそうです。
●本当の変乱煽起者を育てた松下村塾
行徳 ですから、私塾のありようを見るために、昨日、適塾に行ったのですが、本当の変乱煽起者を育てるにはきれいすぎるのです。やは...