●若者よ、弥勒菩薩の美しさに触れてこい
―― 先生はよく「京都に行ったら、広隆寺で弥勒菩薩を見てこい。あの美しさは、罪を犯したものでないと分からん」と言われていますね。
行徳 広隆寺の仏像は、本当にきれいです。いいですよ。何とも言えないですね。
―― 先生に言われてから、弥勒菩薩を見に広隆寺へ行くようになりましたが、やはりすごいですね。
行徳 そうですか。大仏とは全く違う、等身大の魅力があります。私は弥勒菩薩には本当に救われます。ですから今、若者たちにも何かあったら「弥勒菩薩の所へ行ってこい」と言っています。
―― 弥勒菩薩を発見して、そのことを最初に言ったのは外国人でしたね。ブルーノ・タウトでしたか?
行徳 それは、ドイツのカール・ヤスパースです。
―― カール・ヤスパースでしたか。やはり一流の人が見ると分かるということですね。
行徳 しかも、この像は作者不明ですから、誰が彫ったか分からないのです。
―― なるほど。先生はこの像を初めて見た時、ヤスパースのように思われたのですね。
行徳 そうですね。ヤスパースは、このようなことを言っています。「自分は30年間、世界中の美術品や彫刻を見て回ったけれど、この菩薩に勝る美しさと気高さを持った像はどこにもなかった。人間が達しうる最高の気高さと最高の美しさを持った像が、この弥勒菩薩だ」と。
●親鸞と田中角栄に通じる「悪の研究」
行徳 しかし、「この美しさや気高さは、過ちや罪を犯した人間でなければ出てこない」とも言っています。悪の研究をしないと、善は決して分からないですからね。
―― やはり対象物のところにまで行かないと、見えないものがあるのでしょうね。人間としての体験量が少ないと分からない。
行徳 見えないのです。親鸞の言葉にも「悪人なおもて往生す」とあります。善人が救われるのであれば、悪人こそ救われていいということです。
―― 「悪人正機説」ですね。やはり悪の研究をして、そこが見えない間は、いいことや役に立つことはできないのですね。
行徳 悪の研究は大事です。その点では、やはり田中角栄さんあたりが、いい意味でも悪い意味でも、日本の真の宰相といえる最後の人物だったでしょうね。田中さんを見ていると、紛れもなく「私を生きた」人だと分かります。良かろうが良くなかろうが、です。
―― 良かろうが良くなかろうが、ですか。
行徳 はい。良いか悪いかで見るのは理性の罪です。理性が犯した最大の罪の一つは、何でも正しいか間違いかでしか物事が見られなくなったことです。正しいか間違いかで律せられるほど、人間は底が浅くありません。もっと深みがあったり、思いやりや優しさがあったり、それから憎しみや敵意があったりする。それを、良いか悪いかで律すること自体がおかしい。人間にしても現象にしても、正しいか間違いかで見ていると、まず見誤りますね。
―― 良いか悪いかだけでは、見えないですね。その程度で動いていたら、楽ですよね。
●煩悩を生きるべし。美化が危機を生む
行徳 私には、白隠禅師が言ったことで好きな言葉があります。「良きも悪しきも皆打ち捨てて、生地の白地で月日を送れ。 触りゃ濁るぞ谷川の水」という言葉です。現代人は触り過ぎて、濁らせ過ぎていますね。
この言葉は「問うな学ぶな手出しをするな」と続きますが、われわれは「なぜ? なぜ? なぜ?」と、WHYを問い過ぎるのです。
WHYカルチャーという「なぜ?」の文化を発達させ過ぎることで国力が弱り、亡国に至ったのがローマであり、ギリシャです。
なぜとかそんなことではないのです。現象の背後に何があるのかを詮索し過ぎたり、追跡し過ぎたりするよりは、そのまま食べてしまえばいいのです。ですから、人間は煩悩を生きることですね。
―― 煩悩を生きることですか。
行徳 煩悩以上の「万歳」はないです。煩悩には栄養がいっぱい詰まっていますから、食べてもうまいし、滋養分があります。例えば、男なら女性問題でのトラブルなどあって当たり前でしょう。それを皆、美化して飾り立て、隠蔽や歪曲をするものだから、自分が自分からだんだん遠のいているのです。
―― 自分から遠のくということは、田中角栄さんのように私を生きていないということですね。
行徳 そうです。現代の人類を襲っている最大の危機は、資源でもなければ人種問題でもないと思います。自分が自分に帰属できないアイデンティティー・クライシスですよ。これ以上の不幸はないです。
●キュルケゴールと大衆の関係から政治を学ぶ
―― 先生からお聞きしたセーレン・キュルケゴールの「野鴨」のお話ですね。
行徳 あれは典型ですね。私はあの哲学者の生きざまに、大変に惹かれました。
―― 教会の前で改革運動を一人で進める...