●トルコ与党弱体化の背景にイランとの関係あり
皆さん、こんにちは。
トルコにおいて今月(2015年6月)、総選挙が行われました。その結果、レジェップ・タイップ・エルドアン大統領の与党AKP(公正発展党)は、議会における圧倒的多数派の地位を得ることに失敗しました。このことにより、エルドアン氏が意図していた大統領権限の強化、すなわち憲法改正によってトルコ共和国大統領をロシアやフランス、アメリカ並みの強い権力者に変えていこうとするもくろみは、遠のいたかに見えます。
今日は、こういったことの背景にある重要な国際関係の一つとして、あまり語られていない要素ですが、イランとトルコとの関係について少し語ってみたいと思います。
●バランスと対立を繰り返してきた両国の歴史と現状
トルコとイランはそれぞれ、オスマン帝国やサファヴィー朝の継承者であることを自負し、絶えずバランスを取りながら中東の権力を埋めようとしてきました。
最近のイエメン紛争においても双方は対立しています。テヘラン(イラン)は、急成長しているシーア派の一派であるザイド派のホーシー集団を支援していますが、アンカラ(トルコ)は、サウジアラビアと同じスンナ派のアラブ人たちとコアリション(提携)を組み、現在のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディー大統領を支援しているわけです。
こうした現実に照らして、この3月にエルドアン大統領は、「中東地域をイランがコントロールしようとしている。非常に不法に統御しようとする企てであり、我慢がならない」と公言しました。それに反発したイランの国会議員65人が、トルコ大統領の「不注意な声明」に照らしてハッサン・ローハニ大統領に、4月に予定されていたエルドアン大統領のイラン訪問を拒否すべきだと要求しました(結果としては、この訪問は実現しました)。
●イラン革命以来、両国は緊張した関係に
1937年のサーダーバード条約から1979年のルーホッラー・ホメイニーによる革命に至るまで、二つの国は友好関係を維持してきました。しかし、ホメイニーの「シーア派革命の輸出」というものの考え方は、世俗主義のトルコとの間に水と油の関係がありました。
トルコでは1980年に事実上の軍事クーデターが起きます。世俗主義の守護神を自負するトルコ国防軍は、イランのイスラム共和国を世俗主義(セキュラリズム)に対する脅威と考えました。トルコ政府はイランをテロ支援国家の一つと見なして厳しく批判し、両国の関係は緊張したわけです。
1990年代に入っても、この敵対関係は続きます。トルコの世俗主義的なジャーナリストや著名人が次々に暗殺された事件に対して、イランが関与しているのではないかという疑いがあったからです。ところが、2002年にエルドアン氏のAKP(公正発展党)が権力を掌握して以来、トルコとイランとの関係は変わり始めます。
●無敵となったAKP政権の新オスマン外交
2008年にエルゲネコン裁判が行われ、2013年に結審しています。これはどういう裁判かというと、エルドアン氏の率いるAKP政権を転覆するために、国防軍の高官や将軍、学界のトップリーダーたち、さらに最高裁長官や検事総長レベルの法律家やその経験者、さらにクオリティーの高いジャーナリストまでもが共同謀議を重ねたというものでした。
結果として、国防軍は元首脳らを逮捕・収監することになったため、軍の地位は著しく下がり、エルドアン氏とAKPの政界における地位を無敵の存在に仕立て上げたのです。
当時の外相で、今の首相のアフメト・ダウトオール氏は、トルコ外交の立ち位置を、EUや欧米、ひいてはムスタファ・ケマル・アタチュルクの世俗主義に基づく原理から、むしろオスマン帝国の栄光期を思い出すような、ネオ・オスマン主義的な世界観に変えてしまいました。豊かなオスマン帝国の遺産や外交的な成果に基づくインディペンデントな外交を促進しようとしたのです。
これは、「近隣との問題ゼロ外交」と呼ばれたり、「新オスマン外交」と呼ばれたりしました。その関連で、当時のエルドアン首相とダウトオール外相は、イランをテロ支援国家のリストから解除することになったのです。
●核に関する協定後、急接近したトルコとイラン
トルコの新しいイラン政策は、2010年のテヘランでの協定に象徴されています。これは、ブラジル、イラン、トルコの3カ国の間で交わされたものですが、当時疑惑の的であったイランの核濃縮をめぐる西側諸国との対立において、ブラジルとトルコが調停を試みたものです。低濃縮ウランをフランスに出して高濃縮化できないように核燃料棒に加工することで、欧米の批判をかわそうとしたわけです。
しかしながら、これはアメリカの強い...