テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
会員登録 テンミニッツTVとは
社会人向け教養サービス 『テンミニッツTV』 が、巷の様々な豆知識や真実を無料でお届けしているコラムコーナーです。
DATE/ 2021.10.27

『音が描く日常風景』が伝える「新しい自己」のはじまり

 普段、「私たち」は主に視覚情報をたよりにして日常生活を送っています。ここであえて「私たち」と括弧書きにしたのにはわけがあります。それは、この「私たち」には万人が当てはまるわけではないからです。「私たち」には、ある前提が潜んでいます。その前提とは、「目が見える」ということです。

 当たり前のことですが、「目が見えない」としたら、視覚情報をたよりに生活することはできません。では、何をたよりにするのかといえば、それは「聴覚」です。目が見えなくても、「聴く」という技術が日常を支えている人々も世の中にはたくさんいます。そこに広がっているのは「音が描く日常風景」ではないでしょうか。

 「音が描く日常風景」とはどんな世界なのか。それを知ることは、目の見えない人の感覚世界を知ることにとどまらず、「音」というものが日常生活において何をもたらしているのかを知ることでもあります。

 今回は、まさにそのことを記した書籍『音が描く日常風景:振動知覚的自己がもたらすもの』(伊藤精英著、佐々木正人編、國吉康夫編、金子書房)をもとにして、未知なる音の世界をご案内します。

「新しい自己」のはじまり――視覚的自己から振動知覚的自己へ

 著者の伊藤精英氏は、公立はこだて未来大学システム情報科学部情報アーキテクチャ科教授。専攻は心理学で、専門は聴覚・振動知覚です。「振動知覚」は耳慣れない言葉かもしれませんが、聴覚も元はいえば振動を通して音を感じる知覚です。振動知覚は、聴覚では知覚できない振動もその知覚対象に含みます。

 伊藤氏はもともと「一メートル離れた人の顔がわかるくらい」の視力を有していたのですが、ある出来事をきっかけに失明したそうです。この失明体験がその後の心理学研究、そして「周囲の環境によってどのように環境を知覚できるのか」「環境の知覚における聴覚と振動知覚の関係」「そもそも自己とは何か」といった現在の研究テーマにつながっていると記しています。

 失明するということは「光を失う」ということです。光を失うとどうなるのか。全盲者は暗黒の世界を知覚しているのか。伊藤氏は次のように答えています。「いや、暗黒の世界を『見て』いるのか? それはない。その理由は光を感受しない以上は暗さも感受しないからである」

 伊藤氏の体験では失明後、一年から一年半が過ぎると「新しい自己」がはじまると書いています。それまでの「視覚的自己」が崩壊し、それに代わって「聴覚的自己」が萌芽し、さらに「振動知覚的自己」が覚醒するのだそうです。つまり、それまで頼っていた「視覚」ではなく、「聴覚」「振動知覚」を中心とした自己が確立するというわけです。

「サウンドマーク」を特定し、目的地を目指す

 「聴覚的自己」「振動知覚的自己」という新たな自己を確立していくということは、すなわち「視覚的自己」として生活していた頃とはまったく異なる新たな日常を生きていくということです。たとえば、街中の歩行です。読者の皆さんは、目の見えない人がどうやって街の中を歩いているのだろうと考えたことはありませんか。

 伊藤氏の研究によると、目の見えない人は道路の構造に関する知覚情報を巧みに利用しているのだそうです。道路の構造とは、道の形状と、自分の位置を知るためのランドマークです。ランドマークは、言い換えれば「サウンドマーク」です。

 例えば、駅構内であれば、改札・券売機・換気口など定位置の対象物が「サウンドマーク」となります。この「サウンドマーク」を特定し、自分の位置情報と結びつけることで目的地を目指すわけです。目の見える、見えないに限らず、ランドマークや「サウンドマーク」を特定できず、変化する情報に気を取られやすい人は道に迷う傾向が高いそうです。

「そこに物がある」と分かるのはなぜか

 目の見えない人の中には、音を発しない物でも触れることなく「そこに物がある」とわかる人がいるそうです。「第六感」という言葉もありますが、まるで超能力のようなこの知覚は長らく神秘のベールに包まれていました。

 それが近年の研究で「振動知覚的自己」が関与していることが明らかになってきました。つまり、音にかぎらず、空気中を伝播する振動を知覚することによって、人はその場所に関する情報をピックアップすることができるのだそうです。

 最近はマスクを装着することが当たり前になりましたが、目の見えない人の中には、マスクの装着によって「周囲がわからなくなる」と口にする人がいるのだそうです。これは、顔面をマスクで覆うことによって「周囲を知覚するための微細な空気振動(空気流動)を捉えられなくなってしまうから」です。

 以上のことは、目の見えない人だけが当てはまるわけではありません。たとえ目が見えるとしても、その根底では「振動知覚的自己」というものが実は自己の存在を支えているのです。

「目が見えない人は耳がいい」

 伊藤氏によると、「目が見えない人は耳がいい」といわれることが多いとのこと。ここまでお伝えした内容を振り返ってみても、たしかに聴覚や振動知覚の感度がとても優れていると感じます。たとえば、「サウンドマーク」の話でも触れましたが、音源の場所を特定する音源定位の技術が優れていることは、すでに研究報告があります。また、目の見えない人は耳が老化しにくい傾向があるのだそうです。

 ただし、こうしたことは聴力検査の結果としてあらわれるものではありません。「耳がいい」というのは、いわば「生活聴力」ともいうべき技能についてだということです。

「見えるもの」と「見えないもの」

 さて、「音が描く日常風景」というものがなんとなくイメージできるようになってきたのではないでしょうか。

 世界は「見えるもの」と「見えないもの」の両方で成り立っています。目が見えると、どうしても「見えるもの」に注意が偏りがちになりますが、前述のように、無意識のうちに音や振動といった「見えないもの」もたよりにして私たちは生活しているのです。そして、そうした未知なるもの、その世界の存在に気づかせてくれるのが、ご紹介した書籍『音が描く日常風景:振動知覚的自己がもたらすもの』なのです。

 ではここで、目を閉じて耳を澄ましてみてください。どんな音が聞こえますか。どのように聞こえますか。それはあなたにどんな影響をもたらしていますか。そうして、もう一つの世界が広がっていることを感じてみる。ときには「音が描く風景」に浸ってみるのはいかがでしょうか。

<参考文献>
『音が描く日常風景:振動知覚的自己がもたらすもの』(伊藤精英著、佐々木正人編、國吉康夫編、金子書房)
https://www.kanekoshobo.co.jp/book/b552680.html

<参考サイト>
公立はこだて未来大学 伊藤精英教授の研究室
https://www.fun.ac.jp/~itokiyo/index.html

~最後までコラムを読んでくれた方へ~
より深い大人の教養が身に付く 『テンミニッツTV』 をオススメします。
明日すぐには使えないかもしれないけど、10年後も役に立つ“大人の教養”を 5,600本以上。 『テンミニッツTV』 で人気の教養講義をご紹介します。
1

グローバル主義が全ての元凶…トランプ政権がめざすのは?

グローバル主義が全ての元凶…トランプ政権がめざすのは?

米国システムの逆襲~解放の日と新世界秩序(1)米国システム「解放の日」

第二次トランプ政権は、その関税政策を発動させた日、4月2日を「解放の日」と称した。そこには、アメリカが各国の面倒を見るという第二次世界大戦以降の構図が、アメリカに損害をもたらしているという問題意識がある。「解放の...
収録日:2025/04/25
追加日:2025/05/20
東秀敏
米国大統領制兼議会制研究所(CSPC)上級フェロー
2

「哲学・歴史」と「実証研究」の両立で広い視野をつかむ

「哲学・歴史」と「実証研究」の両立で広い視野をつかむ

デモクラシーの基盤とは何か(3)政治と経済を架橋するもの

「政治経済」と一口にいっても、両者を結びつけて思考することは簡単ではない。政治と経済を架橋するためには、その土台にある歴史や哲学、また実証的なデータを同時に検討する必要がある。これからの公共性を考えるための多角...
収録日:2024/09/11
追加日:2025/05/23
3

トランプ政治と民主主義の危機…カント哲学から考える

トランプ政治と民主主義の危機…カント哲学から考える

編集部ラジオ2025(9)デモクラシーの危機と「哲学」

いま、世界各国で「デモクラシーの危機」が高まっています。これまでの常識を超えたドラスティックな政策を次々と打ち出す第2次トランプ政権はもちろん、欧州各国の政治状況もポピュリズム的な面を強くしています。また、ロシア...
収録日:2025/04/03
追加日:2025/05/22
テンミニッツTV編集部
教養動画メディア
4

日本のインテリジェンスは大丈夫か…行政機関の対応に愕然

日本のインテリジェンスは大丈夫か…行政機関の対応に愕然

医療から考える国家安全保障上の脅威(4)国家インテリジェンスの課題

「日本のインテリジェンスは大丈夫なのか」という声が海外から聞かれるという。例えば北朝鮮のミサイルに搭載されている化学剤について、「エイジング」と呼ばれる拮抗薬投与までの制限時間の観点からはまったく見当違いの神経...
収録日:2024/09/20
追加日:2025/05/22
山口芳裕
杏林大学医学部教授
5

ブレーキなき極右ポピュリズム…文化戦争を重視し経済軽視

ブレーキなき極右ポピュリズム…文化戦争を重視し経済軽視

第2次トランプ政権の危険性と本質(1)実は「経済重視」ではない?

「第二次トランプ政権は、第一次政権とは全く別の政権である」――そう見たほうが良いのだと、柿埜氏は語る。ついつい「第1次は経済重視の政権だった」と考えてしまいがちだが、実は第2次政権では「経済」の優先順位は低いのだと...
収録日:2025/04/07
追加日:2025/05/10
柿埜真吾
経済学者