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『計算する生命』で歩む「計算」という人間の営みの歴史
数学は実に身近な存在です。「指を使ってたし算をする」とか「神と鉛筆を使って筆算をする」といったことは、誰もが経験していることではないでしょうか。また、買い物でのお釣りの計算、料理をするときの正確な分量の計量など、日常生活に目を向ければ、私たちは意識せずとも日々「計算」しながら暮らしています。
今日では、単純なたし算・ひき算から、コンピュータを使った複雑な計算まで、広い範囲に数学が用いられています。そして、技術の進歩により、機械は人間の計算能力を大きく上回り、日夜、私たちの想像を超える処理を黙々とこなしています。目まぐるしく進歩する計算科学とAIを前に、人間の役割はどのように変化していくのでしょうか。今回ご紹介する『計算する生命』(森田真生著、新潮文庫)は数学史をたどりながら、機械と人間の関係、そこに横たわす大きな問題に見通しを与えてくれる名著です。
2015年に出版された初の単著『数学する身体』(新潮社)は小林秀雄賞を受賞し、そして本書『計算する生命』は2022年に河合隼雄学芸賞を受賞しています。どちらも数学の歴史をわかりやすく、かつ魅力的な文体で語っていて、数学に関心をもつ読者や、数学に新たに触れてみようとする人にとって価値ある著作となっています。
本書はタイトルの通り、計算と生命という対照的な概念を結びつけた作品です。機械的で無機質な感じのする「計算」と、温かみのある「生命」は一体どうつながるのでしょうか。
本書は、森田氏のまだ幼い長男が指で数を数えることができるようになったというエピソードから始まります。このエピソードで表されているのは、実際に数を「数える」という実感です。指折り数を数えたり、筆算しながら紙に計算したりすること。そのときには確かに感じられていた「計算しているという手応え」が、技術が高度に発展した現代社会、「たとえばスマートフォンをいじっているときには、ほとんど感じられなくなる」とは森田氏の談。
数学の歴史は人が計算に生命を吹き込み続けてきた歩みです。その歩みをたどることで、「計算という営みの手応えを、少しずつ取り戻していきたい」という考えが本書の根底にはあります。
続く第2章では、ユークリッド、デカルト、リーマンという3人の数学者に焦点が当てられます。古代ギリシアではユークリッドの『原論』に代表されるように、幾何学が発展しました。定規やコンパスを用いて図形の性質を解明していく古典的な幾何学。この時点では線の長さや角度、面積といった具体的な図の「意味」と数学は密接不可分でした。
近世にデカルトが登場してから、この認識に変化が生じます。デカルトは明晰かつ「厳密」な真理を求める方法として数学を用いました。その探求の過程で幾何学の問題を扱う際にも代数の方法(方程式など)が用いられるようになります。数学に対する認識が、何かを測るといった実践的なものから、「厳密で確実な認識を支える方法とは何か」という哲学的な問いに関連するようになったのです。
そして、19世紀になると、数学はもはや「数」「量」「空間」についての直観に依存しない学問として発展していくことになります。ここで取り上げられているリーマンは、リーマン積分、リーマン面、リーマン多様体など、現代数学に不可欠な概念をいくつも生み出してきた数学者です。
リーマンが行ったのは、それまで「量」についての科学だと常識的に信じられてきた数学の理解を刷新したことです。この世界の前提条件であるように感じられる「空間」が、実は「私たちが能動的な仮説形成によって、主体的に空間概念を更新し、修正していくことができる」ものだとリーマンは明らかにしました。詳細な説明は本書をお読みいただくとして、この段階に至って数学は、数式と計算にとどまらず、「誰も知らなかった未知の概念を生み出していく」という「きわめて創造的な活動」になったのです。
これに対し、人間的な要素を捨象することの限界について論じた哲学者として、ウィトゲンシュタインが登場します。彼は『論理哲学論考』という書物の最後に有名な一節を残しました。「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」。この言葉の本意は、「語り得ぬもの」は数学や科学の対象とはできない、さまつなものということではありません。むしろ、記号の規則的操作に容易に還元できない複雑で曖昧なものこそが重要だということです。
森田氏はチューリングとウィトゲンシュタインを並べることで、「計算」と「生命」を対照させています。その筆致はウィトゲンシュタインに導かれ、「計算という営みの手応え」を取り戻す方向へと向かいます。
最終章では、「計算」と「生命」についての森田氏の認識が示されます。人は計算するだけの機械ではない。「計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み直し続けてきた計算する生命である」。
本書の第4章冒頭にはウィトゲンシュタインの言葉が引かれています。「ザラザラとした大地へ戻れ!」。これはまさに人間を捨象した「純粋な」認識の限界を示すものです。安易な論理操作を拒むこの世界の複雑性を人間の条件として受け入れ、その上で認識の拡張と意味の生成を続けること。それこそが「計算する生命」としての人間の使命なのです。
他にもまだ十分に紹介しきれなかった興味深い議論がいろいろとあります。書店で見かけたらぜひ手にとってみてください。森田氏がいうように「計算が人間とともに変容してきた歩みに合わせて思考する時間」を存分に楽しむことができるでしょう。
今日では、単純なたし算・ひき算から、コンピュータを使った複雑な計算まで、広い範囲に数学が用いられています。そして、技術の進歩により、機械は人間の計算能力を大きく上回り、日夜、私たちの想像を超える処理を黙々とこなしています。目まぐるしく進歩する計算科学とAIを前に、人間の役割はどのように変化していくのでしょうか。今回ご紹介する『計算する生命』(森田真生著、新潮文庫)は数学史をたどりながら、機械と人間の関係、そこに横たわす大きな問題に見通しを与えてくれる名著です。
気鋭の数学研究者曰く「計算という営みの手応えを取り戻していきたい」
本書の著者である森田真生氏は、数学を中心とした著作の執筆や講演活動を行う独立研究者です。東京大学理学部数学科を卒業後、特定の研究機関に所属することなく研究を続け、現在は「数学の演奏会」「大人のための数学講座」「数学ブックトーク」といった数学をテーマにしたライブ活動を展開しています。2015年に出版された初の単著『数学する身体』(新潮社)は小林秀雄賞を受賞し、そして本書『計算する生命』は2022年に河合隼雄学芸賞を受賞しています。どちらも数学の歴史をわかりやすく、かつ魅力的な文体で語っていて、数学に関心をもつ読者や、数学に新たに触れてみようとする人にとって価値ある著作となっています。
本書はタイトルの通り、計算と生命という対照的な概念を結びつけた作品です。機械的で無機質な感じのする「計算」と、温かみのある「生命」は一体どうつながるのでしょうか。
本書は、森田氏のまだ幼い長男が指で数を数えることができるようになったというエピソードから始まります。このエピソードで表されているのは、実際に数を「数える」という実感です。指折り数を数えたり、筆算しながら紙に計算したりすること。そのときには確かに感じられていた「計算しているという手応え」が、技術が高度に発展した現代社会、「たとえばスマートフォンをいじっているときには、ほとんど感じられなくなる」とは森田氏の談。
数学の歴史は人が計算に生命を吹き込み続けてきた歩みです。その歩みをたどることで、「計算という営みの手応えを、少しずつ取り戻していきたい」という考えが本書の根底にはあります。
数学の歴史は人間の認識が拡大してきた過程
それでは本書の内容を具体的に見てみましょう。「計算」という営みの歴史は、「人間の認識が届く範囲が、少しずつ拡大してきた歴史でもある」という森田氏。まずは古代の人々の認識を確認するところから出発します。第1章では、数の起源や、算用数字の広がり、負の数、数直線や虚数の発見などが扱われています。続く第2章では、ユークリッド、デカルト、リーマンという3人の数学者に焦点が当てられます。古代ギリシアではユークリッドの『原論』に代表されるように、幾何学が発展しました。定規やコンパスを用いて図形の性質を解明していく古典的な幾何学。この時点では線の長さや角度、面積といった具体的な図の「意味」と数学は密接不可分でした。
近世にデカルトが登場してから、この認識に変化が生じます。デカルトは明晰かつ「厳密」な真理を求める方法として数学を用いました。その探求の過程で幾何学の問題を扱う際にも代数の方法(方程式など)が用いられるようになります。数学に対する認識が、何かを測るといった実践的なものから、「厳密で確実な認識を支える方法とは何か」という哲学的な問いに関連するようになったのです。
そして、19世紀になると、数学はもはや「数」「量」「空間」についての直観に依存しない学問として発展していくことになります。ここで取り上げられているリーマンは、リーマン積分、リーマン面、リーマン多様体など、現代数学に不可欠な概念をいくつも生み出してきた数学者です。
リーマンが行ったのは、それまで「量」についての科学だと常識的に信じられてきた数学の理解を刷新したことです。この世界の前提条件であるように感じられる「空間」が、実は「私たちが能動的な仮説形成によって、主体的に空間概念を更新し、修正していくことができる」ものだとリーマンは明らかにしました。詳細な説明は本書をお読みいただくとして、この段階に至って数学は、数式と計算にとどまらず、「誰も知らなかった未知の概念を生み出していく」という「きわめて創造的な活動」になったのです。
「計算する生命」としての人間
第3章では認識の確実性を求めた哲学者カントや、論理学者フレーゲによる人工言語の試みなどをたどっていきます。そして第4章では、アラン・チューリングの計算概念が紹介されます。チューリングは現代のコンピュータの基礎理論を示した数学者ですが、彼が定式化した計算とは「明示された規則に統制された記号操作」であり、そこからは「人間がほぼ完全に捨象」されています。このような「生身の人間を前提としない純粋な計算の概念」をチューリングは示しました。これに対し、人間的な要素を捨象することの限界について論じた哲学者として、ウィトゲンシュタインが登場します。彼は『論理哲学論考』という書物の最後に有名な一節を残しました。「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」。この言葉の本意は、「語り得ぬもの」は数学や科学の対象とはできない、さまつなものということではありません。むしろ、記号の規則的操作に容易に還元できない複雑で曖昧なものこそが重要だということです。
森田氏はチューリングとウィトゲンシュタインを並べることで、「計算」と「生命」を対照させています。その筆致はウィトゲンシュタインに導かれ、「計算という営みの手応え」を取り戻す方向へと向かいます。
最終章では、「計算」と「生命」についての森田氏の認識が示されます。人は計算するだけの機械ではない。「計算し、計算の帰結に柔軟に応答しながら、現実を新たに編み直し続けてきた計算する生命である」。
本書の第4章冒頭にはウィトゲンシュタインの言葉が引かれています。「ザラザラとした大地へ戻れ!」。これはまさに人間を捨象した「純粋な」認識の限界を示すものです。安易な論理操作を拒むこの世界の複雑性を人間の条件として受け入れ、その上で認識の拡張と意味の生成を続けること。それこそが「計算する生命」としての人間の使命なのです。
他にもまだ十分に紹介しきれなかった興味深い議論がいろいろとあります。書店で見かけたらぜひ手にとってみてください。森田氏がいうように「計算が人間とともに変容してきた歩みに合わせて思考する時間」を存分に楽しむことができるでしょう。
<参考文献>
『計算する生命』(森田真生著、新潮文庫)
https://www.shinchosha.co.jp/book/121367/
<参考サイト>
森田真生氏のツイッター(現X)
https://x.com/orionis23?s=20
森田真生氏の公式ウェブサイト - Choreograph Life -
https://choreographlife.jp/
『計算する生命』(森田真生著、新潮文庫)
https://www.shinchosha.co.jp/book/121367/
<参考サイト>
森田真生氏のツイッター(現X)
https://x.com/orionis23?s=20
森田真生氏の公式ウェブサイト - Choreograph Life -
https://choreographlife.jp/
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