●「全身全霊」という表現の意味
皆さん、こんにちは。今回も前回に引き続き、8月8日の天皇のおことばについて、私が感じたことを述べていきたいと思います。
天皇陛下は、昨年の誕生日で82歳になられました。その記者会見の席上で、天皇陛下は象徴としての任務や義務を果たしていく中で、「老い」、つまり年をお取りになられたことを率直に触れられ、そういった義務や責任を全うできるかどうかについてのお考えにつながるおことばを述べられたことがあります。
今回のおことばの中で、「全身全霊を込めて」という表現を使われましたが、これは大変なおことばです。私たちの言葉でいえば、「心を込めて全てに接しておられる」ということを意味します。もっと下世話な言葉でいえば、「手抜きをする」あるいは「力を塩梅する」といったことはしない、こうしたことを、「全身全霊」というおことばは意味しています。
身体障害者(ハンディ・キャップのある人)、自然災害や気候変動などによる被災者・被害者の方たちなど、現に今弱い立場にある幅広い人たちに接するとき、「全身全霊」で、そして「御心」を込めて接することができるかできないか。そのことを心配されていたことに、私たちは等しく感動し、感銘を受けました。
高齢になったから休みたい、あるいは楽に隠居したい、あるいは少しでも体が楽になるような生活がしたい、といった私たちのような市井の人間、あるいは市民ならば普通に持つ感情とは別の次元で、天皇陛下はご自分の生活や義務について考えておられます。
心を込めて全身全霊で人々に接することができず、ご自分のお仕事ができなくなるのは、象徴としての国事行為の執行や国際親善活動などのご公務、あるいは様々な理由で弱い立場にある国民への労り、ひいては戦争犠牲者の追悼や鎮魂のお仕事をする上で、相手や関係者に対して失礼になるのではないか、非礼になるのではないか、そういう危惧が込められたおことばだったのではないかと、お見受けします。
●それぞれの「悲しみ」に向き合う天皇
「心を込めて」といってお見舞いなどをされる場合、あるいはサイパンやパラオ、そして今年のフィリピンなどにおいて、戦争で亡くなった人々や現地で戦争に巻き込まれ亡くなった方々を鎮魂し追悼するという場合、あるいは被災地において様々な被災者にお見舞いするという場合、天皇陛下は悲しみという「気」、そこにある悲しみや悲劇と向かい合い、そういうものを「御心」の中に抱いていきます。そうやって「御心」の中に抱いていくことが、「全身全霊で」ということであり、あるいは「心を込めて」ということになるのだろうと思います。
そうした悲しみの「気」をお心の中に抱いたまま、天皇陛下はその後の生活を続けておられます。そして、そのプロセスの中で、違う形で被災者に接する、あるいは別の戦争被害の経験や鎮魂をしていく、こうしたことをされるたびに、ご自分の中に様々な思いが積もっていくのではないかと拝察します。
それは、一回ご経験されたからといって慣れるものではありません。戦没者たちの悲しみや被災者たちの苦しみは、どこかの土地で経験したからといって慣れるものではありません。日々、そして年々において、一つ一つ新しい形で、新しい人々と向かい合わなければなりません。その意味で、大変おつらいお仕事をなさっています。その場所に行って、その人たちやその人たちの霊と共にあることで、少しでも天皇としての役割を果たしたい、国民の統合の象徴としてのお仕事をなさりたい、それがご自分のお役割であると、考えていらっしゃるとお見受けします。
●日本で一番過酷な旅をするご高齢の天皇陛下
天皇陛下は、今回のおことばの中で、高齢化社会、あるいは高齢になるとはどういうことかを、ご自分の体験とともに語っておられます。確かに今の日本人の平均寿命は、男女合わせて83.7歳になっています。フィジカルな意味での老衰が進行している人々も私たちの周りにはかなりいますし、アルツハイマーの進行という、私もまた直面しなければならない問題点は、誰もが等しく経験しなくてはならない、人生最後の局面にあるのです。
一般人であるならば、退職・退官することがありますし、市井の人々がいう隠居もそれにつながります。しかし、天皇陛下にはそうしたものがありません。ある意味、日本で最も不自由な存在であり、引退することも自分の意思ではできません。それが、天皇陛下、皇后陛下、さらには天皇家の人々なのです。そこに生まれた方々には職業選択の自由もなく、世襲という地位と責任を義務付けた上に、そこから離脱する自由、あるいは天皇陛下がご自分で退位や譲位をするという自由もありません。あえて申すならば、大変失礼な言い方になりますが、死ぬまで公務...