●ローマは「自分の国を守る」という強烈な意識を持っていた
前回のシリーズレクチャーで、数千は下らなかったといわれている地中海世界のポリス(都市国家)の中で、なぜ、ローマ人があれだけの大国を築くことができたのか、というお話をしました。その中で、ローマ人が非常に質実剛健であるということと、裏腹かもしれませんけれども、非常に敬虔であり、神々に対して畏れの念を抱いていたということが彼らの一つの誠実さに連なったというお話をしたわけです。
また、もう一つ、ローマ人は自分たちの“祖国”を発見した人々ではないかということもお話ししました。この議論をすると、「いや、われわれの時代には祖国なんて皆、発見している」といった反論もいろいろとあるのですが、さかのぼっていけば確かに祖国とか母国、あるいはもっと平たくいえば特に故郷というものを誰が発見したか、などということは、もう確かめようがありません。誰でも自分が生まれ育ったところは懐かしいに決まっているからです。
そういう意味での祖国や母国ではなく、「自分の国を守る」ということに対する気概をどれだけの人たちが持っているかということ、つまり国王やその周りの人、いわゆる支配者階級や指導者階級といったごく一部の人たちだけではなく、もっと下位の人たちもそうした意識を持つということから考えていきますと、やはりローマ人は非常に強烈にそうした意識を持っていた、といえるのではないかと思います。
●ローマの気概-アッピウス・クラウディウスの大演説
例えば紀元前3世紀のことですが、ギリシャ人の勢力がまだイタリア半島の南部にあった頃、その勢力とローマ人が戦うことになった時にその戦いの中で捕らえられていたローマの将軍が、「ギリシャ人の勢力と戦った自分が和平交渉をしてくる」ということでローマに帰還してきます。ギリシャ側からすれば、それは一つの賭けになります。つまり人質として捕らえていた人物を戻すわけですから、自分の国に帰ったら裏切られてそのままになってしまうケースは十分考えられます。その将軍は自分だけでなく部下を2,000人ほど引き連れていったといわれていますが、その後ギリシャとローマは和平交渉に入ります。
前回お話ししたと思いますが、アッピア街道をつくったアッピウス・クラウディウスという人物が、そうしたローマ人のいわば弱腰の姿勢に対して強く非難をし、元老院で「かつてアレキサンドロス大王は東の方に攻めていき大帝国を築いたが、仮に彼が西の方に、つまりローマ、イタリア半島のローマ側にやってきたら、われわれで徹底的に叩きのめしたのに」と述べ、ローマ人のそうした気概を思い起こさせたのです。アレキサンダー大王はその頃からすれば2世代ほど前の人でした。つまり、父親や祖父の時代の人たちのことを話したわけですが、その上で、ローマ人の国防意識、戦闘意識を呼び覚ますという大演説をしたということです。
●一兵卒に至るまで浸透していた祖国への思い
その演説にローマ人が動かされ、結局和平交渉はうまくいかなかったのです。その時、ローマの将軍は、和平交渉をするために戻ってきたのに結局うまくいかなかった上に部下を2,000人も連れて行ったということで、またギリシャ人たちが勢力を持つ南イタリアに戻って行くわけです。
これはやはり大変なことです。つまり、自分たちは和平交渉のためにやって来たのに、それが成立しなかったら、これは約束違反だからとまた戻って行く、ということはローマの誠実さ、あるいはその約束といったものに国家の中の一員としての在り方を示しているのです。伝説によれば、将軍のようなトップレベルの人物だけではなく、部下たちの中にも1人も脱落者がいなかったそうです。実態としてどこまで正しいかは分かりませんが、しかし、おそらくその大部分がギリシャに戻って行ったといわれています。やはりそうした一兵卒に至るまで、祖国ローマというものに対する熱い思い、敵と約束したことでも破ってはいけないという意味での祖国に対する思いは、ローマ人には非常に強いのではないかと思います。
ですから、母国や祖国、特に故郷という意味では古くからありますけれども、ローマ人は一兵卒に至るまでそういう意識を持っていたということで、祖国の意識が強かったといえるのではないでしょうか。
●法とインフラに表れる優れた実利精神
今回は、その祖国が単に戦争で守るべきところであるというだけではなく、彼らが生きる空間、生活の場としてのインフラストラクチャーといったものを考えたとき、そういうものを築いていく上で、ローマ人は非常に実利精神に富んだ人たちであったという点を取り上げてみたいと思います。
以前にもお話ししたと思いますけれども、エトルリア人は技術において非常に優れており、...